2009年6月1日月曜日

困り顔の君に、心からの想いを テリー・ガー


1970年代半ばだったが大学生の頃、NHKで放送された『刑事コロンボ』シリーズが一世を風靡し、いわゆる海外TVムービーがブームになった。『コロンボ』に続く『警部マクロード』も主演のデニス・ウィーバーとその上司役のJ・D・キャノンのとぼけた掛け合いが面白くこちらも人気を博した。当時ファッションもウェスタン風のアメカジが流行していたこともあって、マクロードが着ているボアがついた革のランチコートやブーツが欲しくて渋谷の「ベイリー・ストックマン」とかに探しに行ったものだ。

そんなお楽しみの『警部マクロード』の準レギュラーに可愛らしい婦警さんがいた。フィリス・ノートンという名のその巡査は毎回破天荒なマクロードに振り回され、いつも困り顔をしていたのだが、ブルーのニューヨーク市警のシャツがよく似合い、決して美人ではないがチャーミングな人で、彼女が出る回をいつも楽しみに待っていたのを覚えている。

1975年の秋に、メル・ブルックスの抱腹絶倒のコメディ『ヤング・フランケンシュタイン』を劇場で観た時に、フィリス警部を演じた女優がテリー・ガーという名であることを知った。『ヤング・フランケンシュタイン』では主人公の博士の助手インガ役で、ジーン・ワイルダー、マデリーン・カーン、マーティ・フェルドマンといった怪優たちに囲まれながらもとぼけた味で負けじと存在感を示していた。豊かなブロンドと意外とグラマラスな彼女は、マッドサイエンティストのはちゃめちゃな研究にやはり困った顔をしていたが、たまらなくキュートだった。

テリー・ガーは1947年生まれ、父はコメディ俳優のエディ・ガー、母はダンサー(奇しくもフィリスという名前である)という芸能一家の血筋で、早くから女優を目指しニューヨークのリー・ストラスバーグのスタジオで演技を学び、16歳でエルビス・プレスリーの『アカプルコの海』のバックダンサーのひとりとして映画出演を果たしている。
60年代後半にいくつか小さな役を経た後、フランシス・フォード・コッポラの『カンバセーション…盗聴…』でジーン・ハックマンの謎めいた恋人役に抜擢されたのがメジャー・キャリアへのきっかけとなった。
『警部マクロード』や『ヤング・フランケンシュタイン』で私が彼女の虜になったのもそのすぐ後のことである。

極東の映画好きの学生が心ときめかすほどだから、当然ハリウッドの製作者たちも彼女に競ってオファーを出し始めた。『ヤング・フランケンシュタイン』に続き、カール・ライナーが『オー!ゴッド』でジョン・デンバーの相手役に起用し、スピルバーグは『未知との遭遇』でリチャード・ドレイファスの女房役で起用する。いちやくゴールディ・ホーンと並ぶコメディエンヌ、性格女優としての地歩が固められていった。
就職した出版社の仲間も、彼女のファンは多かった。1982年、コッポラが今度は彼女を主役として起用した『ワン・フロム・ザ・ハート』は仲間内でも話題となり、大女優ナスターシャ・キンスキーを向こうに回し、恋人との行き違いに切なさを募らせる主人公・フランの演技に魅了された。「テリー・ガーみたいな彼女がいたら」とか「自分こそが社内ファンクラブ第1号だ」とか職場でよく言い合っていたものだ。

ダスティン・ホフマンの女装が話題になった『トッツィー』では、ついにその年のオスカーの助演女優賞にノミネートされて彼女のキャリアは頂点を極めた。メディアの下馬評も高く、彼女は授賞式に合わせてジェーン・フォンダのワークアウトスタジオでダイエットをしその日に備えたが、オスカーは同作品で同候補にダブルノミネートされていたジェシカ・ラングの手に渡ってしまった。ジェシカは『女優フランシス』で主演女優賞にもノミネートされそちらが確実視されていたのだが、けっきょく割りを食ったのがテリーだった。内心おだやかならぬものがあったようだ。一昨年出版された彼女の自伝『Speedbumps:Flooring it Through Hollywood』でも面白おかしくそのエピソードが綴られている。その時の彼女の例のキュートな困り顔が目に浮かぶようだ。

しかし80年代は彼女の時代になった。『ミスターマム』(1983)、『アフター・アワーズ』(1985)、『ブルーウォーターで乾杯』(1988)、『のるかそるか』(1989)。いつも男と女の間で行き違う、おかしくもせつない女を演じ続けた。
そして私自身が映画の雑誌を立ち上げた1990年『天国に行けないパパ』あたりを最後に、彼女の作品はめっきり少なくなった。確かに彼女も中年の域に達し肥り気味だったのは気にかかっていたのだが出演作の減少とともにいつしか私も彼女のことを忘れてしまっていた。

久々に彼女を目にしたのは最近になってのこと。ロザンナ・アークエットのドキュメント映画『デブラ・ウィンガーを探して』(2002)で、である。そこには80年代の面影はどこにもない別なテリー・ガーがいた。
中年になった女優への仕事の減少を嘆く前に、すでにその容色では無理だろうと突っ込みたくなるような変わり果てた姿だった。確かに50を過ぎれば人間だれしも外見の衰えは隠せないが、それにしてもかつては心ときめかせた‘女優’である。それが単なる太ったオバサンにすぎなくなってしまうとは…。

そんな折、彼女が多発性硬化症患者であることをカミングアウトしたというニュースが入ってきた。すでに90年代初頭から発症していたということで、あれほど急に出演作品がなくなったのも、容姿が保てなくなってしまったこともたちどころに合点がいった。キュートな困り顔では済まない、深刻な病に苦しんでいたのだろう。93年に結婚したジョン・オニールとの離婚も闘病中のことだった。
多発性硬化症は特に欧米人女性に多い原因不明の難病で、視神経の障害や運動能力にも影響を与える難病である。インターフェロンを飲みながらその後の女優業をなんとかこなし続けてきたのだった。おしはかることができないような苦労や葛藤もあったのだろう。最近では米国立多発性硬化症(MS)協会のWoman against MS代表に選ばれて闘病のかたわら啓発運動につとめているようだ。
本業のほうも徐々にではあるが母親役を中心にテレビシリーズや、アニメの吹き替えにも挑戦しているようである。

彼女への恋心は80年代に置いておくことにして、かつて私が愛した女の一人である。今後も不運な境遇をポジティブに生きようとする彼女の支持者であり続けようと、今は思っている。

まさしく、“君に捧げる、心からの想いを(one from the heart)”である。


テリー・ガー
1947年12月11日、オハイオ州レイクウッド出身。11歳でコメディアンだった父親と死別後、一家はハリウッドに移り住む。1963年、エルビス・プレスリーの映画でバックダンサー役を貰い、以後何本かの映画の端役で出演していた。その後、ニューヨークでリー・ストラスバーグに師事し本格的に演技を学ぶ。『スタートレック』『警部マクロード』等のTVシリーズにゲスト出演していた際、フランシス・フォード・コッポラ監督の『カンバセーション…盗聴…』で本格的な映画デビューを果たす。82年シドニー・ポラック監督の『トッツィー』でアカデミー賞最優秀助演女優賞にノミネート。1993年、俳優のジョン・オニールと結婚するが96年に離婚。一女の母。
主な映画作品
『この愛にすべてを』(1970)
『カンバセーション…盗聴…』(1973)
『ヤング・フランケンシュタイン』(1974)
『名犬ウォン・トン・トン』(1976)
『未知との遭遇』(1977)
『オー!ゴッド』(1977)
『ワイルドブラック/少年の黒い馬』(1979)
『ワン・フロム・ザ・ハート』(1982)
『マジック・ボーイ』(1982)
『トッツィー』(1982)
『ミスター・マム』(1983)
『スティング2』(1983)
『家族の絆』(1984)
『アフター・アワーズ』(1985)
『ブルーウォーターで乾杯』(1988)
『のるかそるか』(1989)
『アウト・コールド』(1989)
『天国へ行けないパパ』(1990)
『スペース・エイド』(1992)
『プレタポルテ』(1994)
『ジム・キャリーはMr.ダマー』(1994)
『マイケル』(1996)
『ゴーストワールド』(2001)
『デブラ・ウィンガーを探して』(2002)

2009年2月2日月曜日

赤い靴はもう脱いだのか ロザンナ・アークエット


マドンナが爆発的な人気で世界のミュージックシーンを席巻し始めていた1985年、彼女の初の本格的映画出演となった『マドンナのスーザンを探して』(原題『Desperately Seeking SUZAN』)は、彼女のファンに向けた、奔放でセクシーな魅力をたっぷり織り込んだ作品でヒット曲の“Into The Groove”が使われたこともありそこそこのヒット作となった。
ただし日本では宣伝上タイトルの頭に“マドンナの”とつけられていたが、主演を張っていたのは決してマドンナではなく当時新進の女優ロザンナ・アークエットその人だった(その年のゴールデングローブ賞の主演女優にノミネートされている)。

平凡な日常に満たされないものを感じていた主婦が、新聞の求人広告に掲載された“必死でスーザンを求む”という秘密めいた言葉にひきつけられ、そのスーザンなる女性の行方をたどり始めることからとんでもない事件に巻き込まれてしまうという、サスペンスタッチのライトコメディだったが日本では“主演”となってしまったマドンナはともかく、本来主演のロザンナのコケティッシュな魅力には凄いインパクトを受けたものである。

ロザンナ・アークエットは79年の『アメリカングラフィティ2』を皮切りに、83年の『ベイビー・イッツ・ユー』など青春もので頭角を現していたのだが、この『スーザンを探して』と前後してマーティン・スコセッシの『アフター・アワーズ』、ローレンス・カスダンの『シルバラード』という大物監督の作品に立て続けに起用されており、85年という年は女優としての彼女のキャリアがブレイクした年でもあった。
フランス人を思わせる名前だが、ニューヨーク出身のユダヤ系アメリカ人で、小鹿のようなというか子犬のようなというか実にファニーな顔立ちが愛くるしく、聞けば82年のグラミー賞に輝いたTOTOの大ヒット曲『ロザーナ』はメンバーのジェフ・ポーカロが、一時同棲していた彼女に捧げられたものというのにも驚かされた。

そのロザンナがなんといっても世界に知れ渡ったのはリュック・ベッソンの『グランブルー』(1988)である。世界的な大ヒット作品となったこの映画で、主人公のイルカと交感できる男ジャック・マイヨールと恋に落ちるアメリカのキャリア・ウーマンの役でロザンナは一躍世界の恋人となった。私の周辺にもロザンナのファンは増え始め、いまでも『グランブルー』のときのロザンナの愛らしさを語らせると止まらなくなる友人もいる。
この『グランブルー』の大成功だったが、にもかかわらずその後の作品はあまり恵まれたものとはいえなかった。89年の『ニューヨーク・ストーリー』はスコセッシの演出での出演だったがオムニバス映画のパーツであったし、ジョン・ミリウスの『イントルーダー』では主人公の妻という刺身のつまのような役だった。その他にはオーストラリア映画『ウェンディの見る夢は』というコメディの小品がある程度である。
なぜ、彼女は選りによってこんな作品に出てしまうんだろう。『グランブルー』のジョアンナのイメージがかえって役柄を狭めてしまうんだろうか?彼女の名が出るたびにそんな疑問がわいたし残念な思いをしていた。

1991年、当時映画雑誌の編集長をやっていた際、米仏合作『恋人たちのパリ』の宣伝でロザンナが来日し本人にインタビューが出来るという願っても無いチャンスがあった。心待ちにしていた本人とのご対面だったが残念ながら社の幹部との会議かなんかで断腸の思いで他の編集部員にその機会を譲ってしまったのである。インタビューではくれぐれも編集長が個人的にファンであることと、『グランブルー』以降の作品選択の件を聞いてくれと念を押しておいた。
インタビューから帰ってきた部員が言うには“編集長がファンだといったらすごく嬉しがっていましたよ”と真偽のほどは判らないが冗談交じりに私を悔しがらせる報告があった後、私のもうひとつの疑問に関しては“先ずは俳優としてのレンジは広く持ちたい。非メジャーな小味の作品に思いがある”といった心情を語り、続いて“『スーザン~』『恋人たちのパリ』は女性監督、『ウェンディ~』も女性の脚本ということで女性の才能に重きを置いている”というような答えが返ってきたそうだ。記事の中でも製作プロの設立に言及し、監督業進出?という質問に“先の楽しみね”と含みを持たせていた(日本版プレミア91年7月号)。


俳優としてのレンジに関しては、その後『愛の拘束』(1993)のインモラルな女、タランティーノの『パルプフィクション』(1994)の刺青女、デビッド・クローネンバーグの『クラッシュ』では自動車事故に性的興奮を覚えるボンデージ女など、それまでの愛らしさを根底から覆すとんでもない「異常な個性」を演じ続け、女性の才能、製作者への関心ということについては2002年の『デブラ・ウィンガーを探して』で自らメガホンを取ることで結実することになる。実は彼女のポリシーは彼女なりにまったくぶれることはなかったのかもしれない。

『デブラ・ウィンガーを探して』はロザンナが子供の頃、母親から観せられた1948年の英国映画『赤い靴』で衝撃を受けて以来心に抱いていたトラウマである“個人の生活と自己表現の両立は不可能なのか”という命題を34人のハリウッド女優にインタビューしたドキュメント映画で、40代を超えた女優たちの本音を包み隠さず映し出し評判を呼んだ。映画手法的に見ればハリウッドでは酷評もされたようだが、ロザンナの不安や疑問に大勢のハリウッドの女優たちが共感し出演を快諾したのも、彼女のポリシーゆえなのだろう。
ジェーン・フォンダ、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、シャーロット・ランプリングといった憧れの女優たちに向かい合ったとき、他の同じ境遇の女優たちと当時6歳の子供の話しをして自分の悩みを打ち明けたとき、女優としての絶頂期にありながら引退したデブラ・ウィンガーに『赤い靴』のたとえ話をする時、ロザンナは本当に『スーザンを探して』のときのような冒険心溢れる生き生きした表情を見せてくれ、また『グランブルー』のときのようなチャーミングな笑顔が健在だったことに思いしらされた。

彼女も40代としての女優としての位置関係に悩みつつも製作者としての表現方法にもチャレンジしアクティブに活動し続けている。『赤い靴』を脱いだ感のある彼女の今後の活躍がますます楽しみになってもくる。
今年で50代に突入することになるのだが、最近ではなんとポール・マッカートニーと浮名を流すというゴシップも飛び出した。そういえば私生活ではロックスターを次々と篭絡していたっけ。

恐るべしその色香に脱帽するばかりである。
私もまだまだ彼女の魅力から拘束は解けないままだ。



ロザンナ・アークエット
1959年8月10日、ニューヨーク出身。祖父がコメディアン、父が俳優という芸能一家に生まれ、4人の弟妹たち(パトリシア、リッチモンド、アレクシス、デヴィッド)もすべて俳優になっている。子供の頃から児童劇に出ていたが16歳で西海岸までヒッチハイクで渡り、舞台を中心に経験を積む。TVシリーズ『悪魔の棲む村』の出演で注目され、79年『アメリカングラフィティ2』で映画デビュー。私生活では5度の離婚を経験。前夫は映画音楽のコンポーザーのジェームズ・ニュートン・ハワード。自らロック好きを認じ私生活ではTOTOのジェフ・ポーカロ、ピーター・ガブリエルと同棲していたし、最近ではポール・マッカートニーと熱愛が報じられた。
主な映画作品
『アメリカングラフィティ2』(1979)
『ロングウェイ・ホーム』(1981)
『ベイビー・イッツ・ユー』(1983)
『アフター・アワーズ』(1985)
『シルバラード』(1985)
『マドンナのスーザンを探して』(1985)
『ノーバディーズ・フール』(1986)
『グラン・ブルー』(1988)
『ニューヨーク・ストーリー』(1989)
『ウェンディの見る夢は』(1990)
『恋人たちのパリ』(1990)
『ブラック・レインボウ』(1991)
『イントルーダー/怒りの翼』(1991)
『ニューヨーク恋泥棒』(1992)
『ボディ・ターゲット』(1993)
『愛の拘束』(1993)
『パルプフィクション』(1994)
『クラッシュ』(1996)
『TABOOタブー』(1998)
『ポイズン』(1999)
『隣のヒットマン』(2000)
『デブラ・ウィンガーを探して』(2002)
『グレイズ・アナトミー恋の解剖学』(2006)

2008年12月9日火曜日

水瓶座の星を生きて 高橋惠子


1970年4月、赤軍派のよど号ハイジャック事件で騒然とした世情の中、高校に入学した。
安保闘争に揺れる政治的なムーブメントは、私が通う高校でも無縁ではなかった。
紛争の結果、制服は撤廃され都立高校の“自由”を前に、つい何ヶ月前まで子供だった自分が、すべての局面で急激に大人になったような気がした。
新宿の喫茶店にたまり、煙草を吸い、判りもしない実存主義の本をかじった。

安保闘争が終わりけだるい虚脱感とともに迎えたその年の夏、新宿の映画館でやっていた『高校生ブルース』という映画で一人の女優と出合った。
関根恵子。ちょっと鼻にかかった低い声は、何かとても真面目で知的な印象を受けるのだが、その“真面目な”ごく普通の女子高校生が妊娠するというシチュエーション、セーラー服の下には若々しい肉体が息づくという意外性あふれるセクシャリズムに鮮烈な印象を与えられたのを覚えている。

驚いたのは、パンチやプレイボーイといった雑誌でグラビアを飾っていた彼女のプロフィールを読んだときのこと。同年輩であることは知っていたがなんと誕生日に至るまでまったく同じなのだ。同じ星回りを持って生を受けた偶然。それを知った後はなんだかすごく近しい感じがしたし彼女が演じる思春期の揺れる心象は同じ歳の人間として共感できるものだった。衝撃のデビュー作に続いてその年公開された第2弾目は富島健夫のジュニア小説を映画化した『おさな妻』。そう、オレたちはすでに子供だって産めるし産ますこともできる、法的には制限されるが所帯を持つ事だって可能なのだ(テレビ版の『おさな妻』の麻田ルミも同じ歳だ)。
『高校生心中 純愛』、『遊び』、『成熟』…。その後も大映の人気路線となったレモンセックスシリーズで彼女は次々と、同じ世代の性と愛を演じ続けた。当時の彼女が何を考えていたのかはもちろんわかりようもないが、同じ星に生きるものとしてきっと同じように大人としての現在を生きているはずだ、それはまるで双生児のように繋がっているのだと一方的に思い込んでいたのである。

大映倒産後、東宝に移籍し熊井啓監督の『朝やけの詩』で一躍脚光を浴びる。それは単なる若い肉体だけのアイドル路線を脱却した本格的な女優への第一歩だったし、テレビドラマの『太陽にほえろ!』の新子役での起用は役柄をぐっと広げることとなった。
20歳を迎えたある日、大学の授業をサボって渋谷で浦山桐郎の『青春の門』を観た時、梓旗江役の関根恵子に久々に再会した。しばらく会わなかったが“いい女”になっていた。女教師の梓旗江が外国人の恋人と交わすセックスシーンは生々しかった。それを偶然見てしまう主人公の田中健の心情が痛いほど胸に迫った。いつの間にかずっと彼女の方が大人になってしまっていた。正直性的興奮も憶えたが、それと同時に一抹の淋しさも感じていた。もはや彼女は本当の女優へと成長し、手の届かない存在へと昇華したのだ。
しかしその後、彼女は実生活でも、梓旗江のように愛に傷つき、自殺未遂や失踪事件を起こすなどスキャンダルに見舞われ芸能界から消えてしまうのである。

双生児たる自分もその頃やはり恋もしたし苦い別れも経験した。同じ星を生きる者としては同時に自分のバイオリズムも落ちてしまっているように思っていたが、1981年、彼女は日活ロマンポルノ『ラブレター』で復帰、続く翌年、ピンク映画出身の高橋伴明監督によるATG作品『TATOO<刺青>あり』ではやくざの情婦に堕ちてしまったホステス・三千代役で女の生き様を鬼気迫る演技で表現した。
何があったかは問うまい、色々な体験を経て彼女は自分の道を再び歩みだしたのだろう。
そして彼女は女優としての生きる道を指し示した高橋伴明と結婚することになる。

数年後、テレビに映画に活躍する彼女に本当に会うことになった。当時携わっていた雑誌の仕事でインタビューする機会があったのだ。番組宣伝用のインタビューだったのと、取材時間も限られていたのであまり深いことは聴けなかったが、水瓶座の同じ星を生きるヴァーチャルな存在だった相手とやっと会えたことに感激していた。思った以上に美しい人だった。そしてインタビューの終わりに思い切って「実は僕は高橋さんと同じ日に生まれたんです」とドキドキしながら打ち明けた。
「あ、そうなんですか」
帰ってきたのは…。それだけだった。
そっけない反応に少しがっかりしたが、考えてみればあたりまえのことだ。なんて言ったって相手は私のことなんてぜんぜん知らないのだ。すぐに気を取り直し取材の礼を言った後「頑張ってください。応援しています」。
心の底からそう思っていた。
彼女がどうであれ、彼女の幸福こそ同じ星に生きる自分自身の喜びでもあるからだ。

高橋惠子
1955年1月22日生まれ、北海道出身。中学生のときスカウトされ高校1年で大映映画『高校生ブルース』でデビュー。更に同年の『おさな妻』でゴールデンアロー賞新人賞受賞。日本テレビ『太陽にほえろ!』で一躍人気女優となる。1977年睡眠薬自殺未遂、79年作家・河村季里と海外逃避行するなど相次いでスキャンダルに見舞われ引退を決意。1980年に芸能界に復帰した後、82年に出演した映画『TATOO<刺青>あり』の監督・高橋伴明と結婚、芸名も現姓に改名する。その後多くのテレビドラマ、舞台で活躍中。一男一女の母。
主な映画作品
『高校生ブルース』(1970)
『おさな妻』(1970)
『可愛い悪魔 いいものあげる』(1970)
『新・高校生ブルース』(1970)
『高校生心中 純愛』(1971)
『樹氷悲歌』(1971)
『遊び』(1971)
『成熟』(1971)
『朝やけの詩』(1973)
『神田川』(1974)
『動脈列島』(1975)
『青春の門』(1975)
『ラブレター』(1981)
『幻の湖』(1982)
『TATOO<刺青>あり』(1982)
『恋文』(1985)
『次郎物語』(1987)
『ふみ子の海』(2007)

2008年10月2日木曜日

わが妖しきゼフィルス エルザ


それはわずか2,3分の刹那の衝撃だった。
1975年のある日の午後、私はいつものように大学の授業をサボってクラスメイトの樋本君を誘い、いきつけの喫茶店『ドルフィン』でだらだらと時間を潰していた。
『ドルフィン』は現在は既に無いが、当時北青山の旧紀ノ国屋の角を曲がった先にあったこじんまりしたしゃれた喫茶店だった。地下が音楽スタジオになっていてそこが経営していたと思う。
くだらないおしゃべりをしていた我々だったが、ふと喋っていた樋本が口をあけたまま会話をやめた。彼の視線を追って振り返ると背にしていた店の入り口から、ひとりの女性が入ってきたのが見えた。
気が付けば店中の時間が止まっていた。
誰一人動くことの無い空間を、彼女は静かに入ってきて店の従業員に地下のスタジオへ珈琲の出前をオーダーすると踵を返し凍りついて身動き一つ出来ない我々の前を通って、えもいえぬいい匂いの移り香を残し再び扉を開けて外へ出て行った。
そのとたん、縛りが解けてため息とともに時間が再び動き出したように感じた。
「エルザだったね」樋本がぽつりと言ったが、
「うん、スゲーな」と陳腐な答えしか出てこなかった。

この世のものとは思えない美しさとはこのときの彼女のことを指すのだとあの瞬間から30年以上たった今でも思っている。グレーの身体にフィットしたバルキーセーターにジーンズというラフなファッションだったが、それがとってもセミワイルドな雰囲気をかもし出し、小柄だが均整の取れた立ち姿に、栗色のふんわりした髪、猫のような不思議な光を放つ瞳、いまでもあの光景は脳裏から離れない。

このエルザと呼ばれる女性は、当時売れっ子のモデルでCMや男性誌のグラビアを飾っていた。
本名はエリザベス・ゲドリック。ポーランド系アメリカ人を父に持ついわゆるハーフタレントである。
もともとスラブ系のポーランドの血をひいていることもあって、ヤンキー的な明るさとは対極のちょっとエキゾチックな物静かなイメージがあったのだが、その反面単なるモデルに飽き足らず、歌手としても活動しており、あの日もレコーディングの最中だったのだろうか地下のスタジオを利用している合間だったのかもしれない。

最近になって彼女がレコーディングしたアルバム『Half&Half』『ポップコーンと魔法使い』が復刻プレスされ、初期のシングル曲「山猫の唄」「エルザのテーマ」も昭和POPSのコンピレーション盤の『歌謡曲番外地 悪なあなた』のなかに収録されており早速手に入れたのである。
いまあらためて聞くと、決してお世辞にも上手いとはいえないヴォーカルだが、ちょっと沈んだトーンの声質はなんだかとても耳障りがよく、あの頃の美しい姿と重ね合わせて想像すると不思議な魅力がある。
当時は知らなかったが、デビュー曲の「山猫の唄」は今をときめくCharがバックバンドのギタリストとして参加していて、スタジオミュージシャンとしての初めてのレコード収録でもあった。Charは当時からやはり図抜けた技量を発揮していて曲間にはクラプトン張りのソロパーツもあリ、こちらの方でも日本のロック史的に価値ある作品といえるのではないだろうか。『ポップコーンと魔法使い』の方でも、四人囃子の茂木由多加、佐久間正英が参加しており、単なるアイドルPOPSとは一線を画した当時としては玄人っぽいスタイルを貫いている。
しかしながら、彼女の活躍していた時期はそう長いことではなく、80年代に入ってしばらくたつといつのまにか忽然とメディアから姿を消してしまった。

手塚治虫の漫画で『地球を呑む』という作品がある。南洋の密林の中の宮殿に人知れず暮らし、その姿を見た男性は(たとえ写真であっても)すべて虜にしてしまうという美貌を持つゼフィルスという女性を描いたものだが、戦争中狂死した捕虜からその写真を見せられたがゆえに戦後何年たっても彼女を思い続けてきた中年の親父たちが登場するエピソードがあり、まるで80年代に姿を消した後もそのとき同席していた樋本と会うたびにどちらからともなくエルザの話を切り出さざるを得ないわれわれの姿そのものである。
一瞬見てしまっただけで30年以上も心を捕らえ続けているエルザこそは確かに私にとってのゼフィルスに違いない。

その後のエルザの消息は遥として分からない。年齢的には既に50を超えている計算だが、おそらくは結婚もし子供も既に成人しているかもしれないのだが、どう考えてみてもそういう幸せな家庭を築いているといった小市民的なイメージが浮かんでこないのだ。
「山猫の唄」の歌詞に“私が歩けばジャングル中は あっちもこっちもため息ばかり そうよそうなの 私は毎年続けてミス・アマゾン”というフレーズがある。
これを聴いているとなんだか本当に南洋の密林の中に、いまもあのとき見た美しい姿のままで妖しい魅力を放っているかもしれない気になってくる。

そう、まるでゼフィルスのように、である。

エルザ
1957年6月25日生まれ。福岡県出身。本名エリザベス・ゲドリック。ポーランド系アメリカ人の父親と日本人の母親とのハーフ。
70年代はじめからモデルとして多くのCMに出演し男性誌のグラビアを飾る。
73年エレックレコード傘下の愛レーベルから「山猫の唄」で歌手デビュー。その後トリオレコードに移籍し「父よ」を発表。アルバムは『Half&Half』(TOYBOX),『ポップコーンと魔法使い』(ビクターエンタテインメント)
主なCM
トヨタ自動車、資生堂など。
主な出演作
81年花王名人劇場『裸の大将放浪記第7話』(関西テレビ)

2008年8月31日日曜日

50年前の足跡を追って フランソワーズ・アルヌール


2004年7月3日。私はポルトガルのリスボンから乗ったバスに揺られていた。高速道路を北上し田舎道に入って約2時間ほど走ると、大西洋の碧い海岸線が急に開けて目的の町ナザレに到着した。サッカー観戦ツアーの合間に出来たフリーの日、私は一人でどうしてもこの地を訪れたかった。それは昔観た映画の舞台となった地であり、銀幕で恋焦がれたあるフランス人女優の足跡をたどりたかったからである。言わば韓流ドラマ「冬のソナタ」でヨン様とジウ姫の名シーンのロケ地に押しかけるおば様たちと同様の衝動に突き動かされてのことだった。

私の“冬ソナ”は『過去を持つ愛情』と言う1954年製作の古いモノクロの作品である。ポルトガルを舞台にしたアンリ・ヴェルヌイユ監督のラブサスペンスで、映画史的にさほど評価の対象になるような映画ではないが、ファドの天才歌手アマリア・ロドリゲスを世界に紹介した映画として知られている。この映画の主演女優がフランソワーズ・アルヌールである。
共演はダニエル・ジェラン。パリ解放の日、戦地から凱旋したジェランは妻の浮気現場にでくわし衝動的に射殺してしまう。情状酌量を汲まれ釈放されたが流れ流れてリスボンでタクシーの運転手をしている。ある日貴族の未亡人アルヌールを乗せひょんなことから恋に落ちる。しかしアルヌールにも秘密の過去があったというストーリー。
私が出向いたナザレのシーンは、ジェランが休日に風光明媚なこの地へアルヌールを案内したことから二人の恋が燃え上がり、夜の海岸の波打ち際でずぶ濡れになりながら愛し合うというからみなのだが、『慕情』『地上より永遠に』と並んで、最も美しい海辺のラブシーンだと思う。1954年当時のトーンの重いモノクロ作品でライトを当てるわけでもなく撮影された海辺はやたら真っ暗だったが、過去を秘めたわけありの二人の不安を内包したようで妙にリアリティを感じさせられたものである。

この映画に出会ったのは高校時代。名画座(あるいはテレビだったか)でこの映画を観たときアルヌールの憂いを含んだ強さと弱さがないまぜになった表情は、リスボンという異国情緒あふれる町とあいまって強烈な印象を受けた。
彼女の魅力はハリウッドの女優にはないフランス風な知的な官能というか、ときに退廃的かと思うと子供のように天真爛漫でコケティッシュな立ち振る舞いを見せたりするアンバランスさ。身長160cmという小柄で華奢な体型だがくびれるところはくびれ出るところは出ているスタイルのよさもあり、今で言うところのエロカワイイという表現がぴったりの女性なのである。
『過去を持つ愛情』で、椅子に座って素足を組むシーンがあるがドキッとするほどきれいな足で実にセクシーだった。歩き方もモデル歩きのようで颯爽としていて本当にうっとりするほど格好いい。

ジャン・ギャバンと共演しアルヌールを世界的女優へと押し上げた『フレンチ・カンカン』(1954)『ヘッドライト』(1955)をはじめ、ロジェ・ヴァディムと組んだ『大運河』(1957)、実在した女性レジスタンスの愛と死を描いた『女猫』(1958)とそれ以来彼女の出演作品を追っかけ続けているのだが、これらの作品以外ではDVD化されている作品が少なく、しかもかつてビデオ化されたものでも廃盤になってしまったものも多く蒐集になかなか苦労している。ハリウッドの大作に比べて現代では特にヌーベルバーグ以前のフランス映画などという需要は少ないのかもしれない。

しかしながら50年代末期から60年代にかけて青春期を過ごした日本の映画青年にとって実はアルヌールは熱烈な支持がある。21世紀を迎えるにあたって『キネマ旬報』で実施された映画人74人によるアンケートによれば“20世紀の映画スター”女優編で並みいるハリウッド女優と肩を並べ7位にランキングされたほどである。また当時の映画ファンでもあった漫画家の石ノ森章太郎氏が『サイボーグ009』の紅一点003の本名にフランソワーズ・アルヌールと命名したことも決して偶然ではないはずだ。
2000年に出版された『フランソワーズ・アルヌール自伝~映画が神話だった時代』(カタログハウス刊)の帯の推薦文で、故久世光彦氏がこんな賛辞を送っている
“あの頃 十七歳のぼくにとって、フランス人の名前と言えば、二つしかなかった。男は『肉体の悪魔』の<フランソワ>、女は『ヘッドライト』の<フランソワーズ> この二人がいてくれて、ぼくたちの青春は光と影の中で、ときめくことができた”
これこそまさに氏から20年遅れの私の心情でもある。

『過去を持つ愛情』のロケから半世紀たったナザレの海岸は、モノクロームのイメージとはかけ離れた紺碧の海とどこまでも続く白い砂浜がまばゆい明るい陽光のなかにあった。おそらくはこの辺だろうと思ったラブシーンの波打ち際にたたずむと、急に風が強く吹きつけ波が大きく砕け私の足元の砂をさらって行った。かたわらには裸足の彼女の息吹を確かに感じた、そんなような気がした。



フランソワーズ・アルヌール
1931年6月3日、フランス領アルジェリアのコンスタンティーヌ生まれ。父親は軍人、母親は舞台女優。高校卒業後演劇研究所で学び、1949年ウィリー・ロジェ監督の『LEPAVE』で映画デビュー。名喜劇役者フェルナンデルと共演した『禁断の木の実』(1952)で一躍人気女優へ。ジャン・ルノワール監督『フレンチ・カンカン』(1954)アンリ・ヴェルヌイユ監督の『ヘッドライト』(1955)の2本でジャン・ギャバンと共演し世界的なヒットとなり国際的な女優へ上り詰める。1961年には来日し“世界中でどこよりカメラで迎えられた”と自伝に記している。プロデューサーのジョルジュ・クラヴァンヌと離婚した後、映画監督のベルナール・ポールと再婚するが死別。70年代以降は日本での公開作品が少なかったが1998年のフランス映画祭でブリジット・ルアン監督『情事の後』が上映され健在ぶりを示した。
主な映画作品
『禁断の木の実』(1952)
『女性の敵』(1953)
『肉体の怒り』(1954)
『過去を持つ愛情』(1954)
『フレンチ・カンカン』(1954)
『ヘッドライト』(1955)
『幸福への招待』(1956)
『大運河』(1957)
『女猫』(1958)
『学生たちの道』(1959)
『パリジェンヌ』(1961)
『フランス式十戒』(1962)
『ダイヤモンドに手を出すな』(1963)
『七人目に賭ける男』(1965)
『夜のアトリエ』(1987)