2009年6月1日月曜日

困り顔の君に、心からの想いを テリー・ガー


1970年代半ばだったが大学生の頃、NHKで放送された『刑事コロンボ』シリーズが一世を風靡し、いわゆる海外TVムービーがブームになった。『コロンボ』に続く『警部マクロード』も主演のデニス・ウィーバーとその上司役のJ・D・キャノンのとぼけた掛け合いが面白くこちらも人気を博した。当時ファッションもウェスタン風のアメカジが流行していたこともあって、マクロードが着ているボアがついた革のランチコートやブーツが欲しくて渋谷の「ベイリー・ストックマン」とかに探しに行ったものだ。

そんなお楽しみの『警部マクロード』の準レギュラーに可愛らしい婦警さんがいた。フィリス・ノートンという名のその巡査は毎回破天荒なマクロードに振り回され、いつも困り顔をしていたのだが、ブルーのニューヨーク市警のシャツがよく似合い、決して美人ではないがチャーミングな人で、彼女が出る回をいつも楽しみに待っていたのを覚えている。

1975年の秋に、メル・ブルックスの抱腹絶倒のコメディ『ヤング・フランケンシュタイン』を劇場で観た時に、フィリス警部を演じた女優がテリー・ガーという名であることを知った。『ヤング・フランケンシュタイン』では主人公の博士の助手インガ役で、ジーン・ワイルダー、マデリーン・カーン、マーティ・フェルドマンといった怪優たちに囲まれながらもとぼけた味で負けじと存在感を示していた。豊かなブロンドと意外とグラマラスな彼女は、マッドサイエンティストのはちゃめちゃな研究にやはり困った顔をしていたが、たまらなくキュートだった。

テリー・ガーは1947年生まれ、父はコメディ俳優のエディ・ガー、母はダンサー(奇しくもフィリスという名前である)という芸能一家の血筋で、早くから女優を目指しニューヨークのリー・ストラスバーグのスタジオで演技を学び、16歳でエルビス・プレスリーの『アカプルコの海』のバックダンサーのひとりとして映画出演を果たしている。
60年代後半にいくつか小さな役を経た後、フランシス・フォード・コッポラの『カンバセーション…盗聴…』でジーン・ハックマンの謎めいた恋人役に抜擢されたのがメジャー・キャリアへのきっかけとなった。
『警部マクロード』や『ヤング・フランケンシュタイン』で私が彼女の虜になったのもそのすぐ後のことである。

極東の映画好きの学生が心ときめかすほどだから、当然ハリウッドの製作者たちも彼女に競ってオファーを出し始めた。『ヤング・フランケンシュタイン』に続き、カール・ライナーが『オー!ゴッド』でジョン・デンバーの相手役に起用し、スピルバーグは『未知との遭遇』でリチャード・ドレイファスの女房役で起用する。いちやくゴールディ・ホーンと並ぶコメディエンヌ、性格女優としての地歩が固められていった。
就職した出版社の仲間も、彼女のファンは多かった。1982年、コッポラが今度は彼女を主役として起用した『ワン・フロム・ザ・ハート』は仲間内でも話題となり、大女優ナスターシャ・キンスキーを向こうに回し、恋人との行き違いに切なさを募らせる主人公・フランの演技に魅了された。「テリー・ガーみたいな彼女がいたら」とか「自分こそが社内ファンクラブ第1号だ」とか職場でよく言い合っていたものだ。

ダスティン・ホフマンの女装が話題になった『トッツィー』では、ついにその年のオスカーの助演女優賞にノミネートされて彼女のキャリアは頂点を極めた。メディアの下馬評も高く、彼女は授賞式に合わせてジェーン・フォンダのワークアウトスタジオでダイエットをしその日に備えたが、オスカーは同作品で同候補にダブルノミネートされていたジェシカ・ラングの手に渡ってしまった。ジェシカは『女優フランシス』で主演女優賞にもノミネートされそちらが確実視されていたのだが、けっきょく割りを食ったのがテリーだった。内心おだやかならぬものがあったようだ。一昨年出版された彼女の自伝『Speedbumps:Flooring it Through Hollywood』でも面白おかしくそのエピソードが綴られている。その時の彼女の例のキュートな困り顔が目に浮かぶようだ。

しかし80年代は彼女の時代になった。『ミスターマム』(1983)、『アフター・アワーズ』(1985)、『ブルーウォーターで乾杯』(1988)、『のるかそるか』(1989)。いつも男と女の間で行き違う、おかしくもせつない女を演じ続けた。
そして私自身が映画の雑誌を立ち上げた1990年『天国に行けないパパ』あたりを最後に、彼女の作品はめっきり少なくなった。確かに彼女も中年の域に達し肥り気味だったのは気にかかっていたのだが出演作の減少とともにいつしか私も彼女のことを忘れてしまっていた。

久々に彼女を目にしたのは最近になってのこと。ロザンナ・アークエットのドキュメント映画『デブラ・ウィンガーを探して』(2002)で、である。そこには80年代の面影はどこにもない別なテリー・ガーがいた。
中年になった女優への仕事の減少を嘆く前に、すでにその容色では無理だろうと突っ込みたくなるような変わり果てた姿だった。確かに50を過ぎれば人間だれしも外見の衰えは隠せないが、それにしてもかつては心ときめかせた‘女優’である。それが単なる太ったオバサンにすぎなくなってしまうとは…。

そんな折、彼女が多発性硬化症患者であることをカミングアウトしたというニュースが入ってきた。すでに90年代初頭から発症していたということで、あれほど急に出演作品がなくなったのも、容姿が保てなくなってしまったこともたちどころに合点がいった。キュートな困り顔では済まない、深刻な病に苦しんでいたのだろう。93年に結婚したジョン・オニールとの離婚も闘病中のことだった。
多発性硬化症は特に欧米人女性に多い原因不明の難病で、視神経の障害や運動能力にも影響を与える難病である。インターフェロンを飲みながらその後の女優業をなんとかこなし続けてきたのだった。おしはかることができないような苦労や葛藤もあったのだろう。最近では米国立多発性硬化症(MS)協会のWoman against MS代表に選ばれて闘病のかたわら啓発運動につとめているようだ。
本業のほうも徐々にではあるが母親役を中心にテレビシリーズや、アニメの吹き替えにも挑戦しているようである。

彼女への恋心は80年代に置いておくことにして、かつて私が愛した女の一人である。今後も不運な境遇をポジティブに生きようとする彼女の支持者であり続けようと、今は思っている。

まさしく、“君に捧げる、心からの想いを(one from the heart)”である。


テリー・ガー
1947年12月11日、オハイオ州レイクウッド出身。11歳でコメディアンだった父親と死別後、一家はハリウッドに移り住む。1963年、エルビス・プレスリーの映画でバックダンサー役を貰い、以後何本かの映画の端役で出演していた。その後、ニューヨークでリー・ストラスバーグに師事し本格的に演技を学ぶ。『スタートレック』『警部マクロード』等のTVシリーズにゲスト出演していた際、フランシス・フォード・コッポラ監督の『カンバセーション…盗聴…』で本格的な映画デビューを果たす。82年シドニー・ポラック監督の『トッツィー』でアカデミー賞最優秀助演女優賞にノミネート。1993年、俳優のジョン・オニールと結婚するが96年に離婚。一女の母。
主な映画作品
『この愛にすべてを』(1970)
『カンバセーション…盗聴…』(1973)
『ヤング・フランケンシュタイン』(1974)
『名犬ウォン・トン・トン』(1976)
『未知との遭遇』(1977)
『オー!ゴッド』(1977)
『ワイルドブラック/少年の黒い馬』(1979)
『ワン・フロム・ザ・ハート』(1982)
『マジック・ボーイ』(1982)
『トッツィー』(1982)
『ミスター・マム』(1983)
『スティング2』(1983)
『家族の絆』(1984)
『アフター・アワーズ』(1985)
『ブルーウォーターで乾杯』(1988)
『のるかそるか』(1989)
『アウト・コールド』(1989)
『天国へ行けないパパ』(1990)
『スペース・エイド』(1992)
『プレタポルテ』(1994)
『ジム・キャリーはMr.ダマー』(1994)
『マイケル』(1996)
『ゴーストワールド』(2001)
『デブラ・ウィンガーを探して』(2002)

2009年2月2日月曜日

赤い靴はもう脱いだのか ロザンナ・アークエット


マドンナが爆発的な人気で世界のミュージックシーンを席巻し始めていた1985年、彼女の初の本格的映画出演となった『マドンナのスーザンを探して』(原題『Desperately Seeking SUZAN』)は、彼女のファンに向けた、奔放でセクシーな魅力をたっぷり織り込んだ作品でヒット曲の“Into The Groove”が使われたこともありそこそこのヒット作となった。
ただし日本では宣伝上タイトルの頭に“マドンナの”とつけられていたが、主演を張っていたのは決してマドンナではなく当時新進の女優ロザンナ・アークエットその人だった(その年のゴールデングローブ賞の主演女優にノミネートされている)。

平凡な日常に満たされないものを感じていた主婦が、新聞の求人広告に掲載された“必死でスーザンを求む”という秘密めいた言葉にひきつけられ、そのスーザンなる女性の行方をたどり始めることからとんでもない事件に巻き込まれてしまうという、サスペンスタッチのライトコメディだったが日本では“主演”となってしまったマドンナはともかく、本来主演のロザンナのコケティッシュな魅力には凄いインパクトを受けたものである。

ロザンナ・アークエットは79年の『アメリカングラフィティ2』を皮切りに、83年の『ベイビー・イッツ・ユー』など青春もので頭角を現していたのだが、この『スーザンを探して』と前後してマーティン・スコセッシの『アフター・アワーズ』、ローレンス・カスダンの『シルバラード』という大物監督の作品に立て続けに起用されており、85年という年は女優としての彼女のキャリアがブレイクした年でもあった。
フランス人を思わせる名前だが、ニューヨーク出身のユダヤ系アメリカ人で、小鹿のようなというか子犬のようなというか実にファニーな顔立ちが愛くるしく、聞けば82年のグラミー賞に輝いたTOTOの大ヒット曲『ロザーナ』はメンバーのジェフ・ポーカロが、一時同棲していた彼女に捧げられたものというのにも驚かされた。

そのロザンナがなんといっても世界に知れ渡ったのはリュック・ベッソンの『グランブルー』(1988)である。世界的な大ヒット作品となったこの映画で、主人公のイルカと交感できる男ジャック・マイヨールと恋に落ちるアメリカのキャリア・ウーマンの役でロザンナは一躍世界の恋人となった。私の周辺にもロザンナのファンは増え始め、いまでも『グランブルー』のときのロザンナの愛らしさを語らせると止まらなくなる友人もいる。
この『グランブルー』の大成功だったが、にもかかわらずその後の作品はあまり恵まれたものとはいえなかった。89年の『ニューヨーク・ストーリー』はスコセッシの演出での出演だったがオムニバス映画のパーツであったし、ジョン・ミリウスの『イントルーダー』では主人公の妻という刺身のつまのような役だった。その他にはオーストラリア映画『ウェンディの見る夢は』というコメディの小品がある程度である。
なぜ、彼女は選りによってこんな作品に出てしまうんだろう。『グランブルー』のジョアンナのイメージがかえって役柄を狭めてしまうんだろうか?彼女の名が出るたびにそんな疑問がわいたし残念な思いをしていた。

1991年、当時映画雑誌の編集長をやっていた際、米仏合作『恋人たちのパリ』の宣伝でロザンナが来日し本人にインタビューが出来るという願っても無いチャンスがあった。心待ちにしていた本人とのご対面だったが残念ながら社の幹部との会議かなんかで断腸の思いで他の編集部員にその機会を譲ってしまったのである。インタビューではくれぐれも編集長が個人的にファンであることと、『グランブルー』以降の作品選択の件を聞いてくれと念を押しておいた。
インタビューから帰ってきた部員が言うには“編集長がファンだといったらすごく嬉しがっていましたよ”と真偽のほどは判らないが冗談交じりに私を悔しがらせる報告があった後、私のもうひとつの疑問に関しては“先ずは俳優としてのレンジは広く持ちたい。非メジャーな小味の作品に思いがある”といった心情を語り、続いて“『スーザン~』『恋人たちのパリ』は女性監督、『ウェンディ~』も女性の脚本ということで女性の才能に重きを置いている”というような答えが返ってきたそうだ。記事の中でも製作プロの設立に言及し、監督業進出?という質問に“先の楽しみね”と含みを持たせていた(日本版プレミア91年7月号)。


俳優としてのレンジに関しては、その後『愛の拘束』(1993)のインモラルな女、タランティーノの『パルプフィクション』(1994)の刺青女、デビッド・クローネンバーグの『クラッシュ』では自動車事故に性的興奮を覚えるボンデージ女など、それまでの愛らしさを根底から覆すとんでもない「異常な個性」を演じ続け、女性の才能、製作者への関心ということについては2002年の『デブラ・ウィンガーを探して』で自らメガホンを取ることで結実することになる。実は彼女のポリシーは彼女なりにまったくぶれることはなかったのかもしれない。

『デブラ・ウィンガーを探して』はロザンナが子供の頃、母親から観せられた1948年の英国映画『赤い靴』で衝撃を受けて以来心に抱いていたトラウマである“個人の生活と自己表現の両立は不可能なのか”という命題を34人のハリウッド女優にインタビューしたドキュメント映画で、40代を超えた女優たちの本音を包み隠さず映し出し評判を呼んだ。映画手法的に見ればハリウッドでは酷評もされたようだが、ロザンナの不安や疑問に大勢のハリウッドの女優たちが共感し出演を快諾したのも、彼女のポリシーゆえなのだろう。
ジェーン・フォンダ、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、シャーロット・ランプリングといった憧れの女優たちに向かい合ったとき、他の同じ境遇の女優たちと当時6歳の子供の話しをして自分の悩みを打ち明けたとき、女優としての絶頂期にありながら引退したデブラ・ウィンガーに『赤い靴』のたとえ話をする時、ロザンナは本当に『スーザンを探して』のときのような冒険心溢れる生き生きした表情を見せてくれ、また『グランブルー』のときのようなチャーミングな笑顔が健在だったことに思いしらされた。

彼女も40代としての女優としての位置関係に悩みつつも製作者としての表現方法にもチャレンジしアクティブに活動し続けている。『赤い靴』を脱いだ感のある彼女の今後の活躍がますます楽しみになってもくる。
今年で50代に突入することになるのだが、最近ではなんとポール・マッカートニーと浮名を流すというゴシップも飛び出した。そういえば私生活ではロックスターを次々と篭絡していたっけ。

恐るべしその色香に脱帽するばかりである。
私もまだまだ彼女の魅力から拘束は解けないままだ。



ロザンナ・アークエット
1959年8月10日、ニューヨーク出身。祖父がコメディアン、父が俳優という芸能一家に生まれ、4人の弟妹たち(パトリシア、リッチモンド、アレクシス、デヴィッド)もすべて俳優になっている。子供の頃から児童劇に出ていたが16歳で西海岸までヒッチハイクで渡り、舞台を中心に経験を積む。TVシリーズ『悪魔の棲む村』の出演で注目され、79年『アメリカングラフィティ2』で映画デビュー。私生活では5度の離婚を経験。前夫は映画音楽のコンポーザーのジェームズ・ニュートン・ハワード。自らロック好きを認じ私生活ではTOTOのジェフ・ポーカロ、ピーター・ガブリエルと同棲していたし、最近ではポール・マッカートニーと熱愛が報じられた。
主な映画作品
『アメリカングラフィティ2』(1979)
『ロングウェイ・ホーム』(1981)
『ベイビー・イッツ・ユー』(1983)
『アフター・アワーズ』(1985)
『シルバラード』(1985)
『マドンナのスーザンを探して』(1985)
『ノーバディーズ・フール』(1986)
『グラン・ブルー』(1988)
『ニューヨーク・ストーリー』(1989)
『ウェンディの見る夢は』(1990)
『恋人たちのパリ』(1990)
『ブラック・レインボウ』(1991)
『イントルーダー/怒りの翼』(1991)
『ニューヨーク恋泥棒』(1992)
『ボディ・ターゲット』(1993)
『愛の拘束』(1993)
『パルプフィクション』(1994)
『クラッシュ』(1996)
『TABOOタブー』(1998)
『ポイズン』(1999)
『隣のヒットマン』(2000)
『デブラ・ウィンガーを探して』(2002)
『グレイズ・アナトミー恋の解剖学』(2006)