2008年10月2日木曜日

わが妖しきゼフィルス エルザ


それはわずか2,3分の刹那の衝撃だった。
1975年のある日の午後、私はいつものように大学の授業をサボってクラスメイトの樋本君を誘い、いきつけの喫茶店『ドルフィン』でだらだらと時間を潰していた。
『ドルフィン』は現在は既に無いが、当時北青山の旧紀ノ国屋の角を曲がった先にあったこじんまりしたしゃれた喫茶店だった。地下が音楽スタジオになっていてそこが経営していたと思う。
くだらないおしゃべりをしていた我々だったが、ふと喋っていた樋本が口をあけたまま会話をやめた。彼の視線を追って振り返ると背にしていた店の入り口から、ひとりの女性が入ってきたのが見えた。
気が付けば店中の時間が止まっていた。
誰一人動くことの無い空間を、彼女は静かに入ってきて店の従業員に地下のスタジオへ珈琲の出前をオーダーすると踵を返し凍りついて身動き一つ出来ない我々の前を通って、えもいえぬいい匂いの移り香を残し再び扉を開けて外へ出て行った。
そのとたん、縛りが解けてため息とともに時間が再び動き出したように感じた。
「エルザだったね」樋本がぽつりと言ったが、
「うん、スゲーな」と陳腐な答えしか出てこなかった。

この世のものとは思えない美しさとはこのときの彼女のことを指すのだとあの瞬間から30年以上たった今でも思っている。グレーの身体にフィットしたバルキーセーターにジーンズというラフなファッションだったが、それがとってもセミワイルドな雰囲気をかもし出し、小柄だが均整の取れた立ち姿に、栗色のふんわりした髪、猫のような不思議な光を放つ瞳、いまでもあの光景は脳裏から離れない。

このエルザと呼ばれる女性は、当時売れっ子のモデルでCMや男性誌のグラビアを飾っていた。
本名はエリザベス・ゲドリック。ポーランド系アメリカ人を父に持ついわゆるハーフタレントである。
もともとスラブ系のポーランドの血をひいていることもあって、ヤンキー的な明るさとは対極のちょっとエキゾチックな物静かなイメージがあったのだが、その反面単なるモデルに飽き足らず、歌手としても活動しており、あの日もレコーディングの最中だったのだろうか地下のスタジオを利用している合間だったのかもしれない。

最近になって彼女がレコーディングしたアルバム『Half&Half』『ポップコーンと魔法使い』が復刻プレスされ、初期のシングル曲「山猫の唄」「エルザのテーマ」も昭和POPSのコンピレーション盤の『歌謡曲番外地 悪なあなた』のなかに収録されており早速手に入れたのである。
いまあらためて聞くと、決してお世辞にも上手いとはいえないヴォーカルだが、ちょっと沈んだトーンの声質はなんだかとても耳障りがよく、あの頃の美しい姿と重ね合わせて想像すると不思議な魅力がある。
当時は知らなかったが、デビュー曲の「山猫の唄」は今をときめくCharがバックバンドのギタリストとして参加していて、スタジオミュージシャンとしての初めてのレコード収録でもあった。Charは当時からやはり図抜けた技量を発揮していて曲間にはクラプトン張りのソロパーツもあリ、こちらの方でも日本のロック史的に価値ある作品といえるのではないだろうか。『ポップコーンと魔法使い』の方でも、四人囃子の茂木由多加、佐久間正英が参加しており、単なるアイドルPOPSとは一線を画した当時としては玄人っぽいスタイルを貫いている。
しかしながら、彼女の活躍していた時期はそう長いことではなく、80年代に入ってしばらくたつといつのまにか忽然とメディアから姿を消してしまった。

手塚治虫の漫画で『地球を呑む』という作品がある。南洋の密林の中の宮殿に人知れず暮らし、その姿を見た男性は(たとえ写真であっても)すべて虜にしてしまうという美貌を持つゼフィルスという女性を描いたものだが、戦争中狂死した捕虜からその写真を見せられたがゆえに戦後何年たっても彼女を思い続けてきた中年の親父たちが登場するエピソードがあり、まるで80年代に姿を消した後もそのとき同席していた樋本と会うたびにどちらからともなくエルザの話を切り出さざるを得ないわれわれの姿そのものである。
一瞬見てしまっただけで30年以上も心を捕らえ続けているエルザこそは確かに私にとってのゼフィルスに違いない。

その後のエルザの消息は遥として分からない。年齢的には既に50を超えている計算だが、おそらくは結婚もし子供も既に成人しているかもしれないのだが、どう考えてみてもそういう幸せな家庭を築いているといった小市民的なイメージが浮かんでこないのだ。
「山猫の唄」の歌詞に“私が歩けばジャングル中は あっちもこっちもため息ばかり そうよそうなの 私は毎年続けてミス・アマゾン”というフレーズがある。
これを聴いているとなんだか本当に南洋の密林の中に、いまもあのとき見た美しい姿のままで妖しい魅力を放っているかもしれない気になってくる。

そう、まるでゼフィルスのように、である。

エルザ
1957年6月25日生まれ。福岡県出身。本名エリザベス・ゲドリック。ポーランド系アメリカ人の父親と日本人の母親とのハーフ。
70年代はじめからモデルとして多くのCMに出演し男性誌のグラビアを飾る。
73年エレックレコード傘下の愛レーベルから「山猫の唄」で歌手デビュー。その後トリオレコードに移籍し「父よ」を発表。アルバムは『Half&Half』(TOYBOX),『ポップコーンと魔法使い』(ビクターエンタテインメント)
主なCM
トヨタ自動車、資生堂など。
主な出演作
81年花王名人劇場『裸の大将放浪記第7話』(関西テレビ)