2008年8月31日日曜日

50年前の足跡を追って フランソワーズ・アルヌール


2004年7月3日。私はポルトガルのリスボンから乗ったバスに揺られていた。高速道路を北上し田舎道に入って約2時間ほど走ると、大西洋の碧い海岸線が急に開けて目的の町ナザレに到着した。サッカー観戦ツアーの合間に出来たフリーの日、私は一人でどうしてもこの地を訪れたかった。それは昔観た映画の舞台となった地であり、銀幕で恋焦がれたあるフランス人女優の足跡をたどりたかったからである。言わば韓流ドラマ「冬のソナタ」でヨン様とジウ姫の名シーンのロケ地に押しかけるおば様たちと同様の衝動に突き動かされてのことだった。

私の“冬ソナ”は『過去を持つ愛情』と言う1954年製作の古いモノクロの作品である。ポルトガルを舞台にしたアンリ・ヴェルヌイユ監督のラブサスペンスで、映画史的にさほど評価の対象になるような映画ではないが、ファドの天才歌手アマリア・ロドリゲスを世界に紹介した映画として知られている。この映画の主演女優がフランソワーズ・アルヌールである。
共演はダニエル・ジェラン。パリ解放の日、戦地から凱旋したジェランは妻の浮気現場にでくわし衝動的に射殺してしまう。情状酌量を汲まれ釈放されたが流れ流れてリスボンでタクシーの運転手をしている。ある日貴族の未亡人アルヌールを乗せひょんなことから恋に落ちる。しかしアルヌールにも秘密の過去があったというストーリー。
私が出向いたナザレのシーンは、ジェランが休日に風光明媚なこの地へアルヌールを案内したことから二人の恋が燃え上がり、夜の海岸の波打ち際でずぶ濡れになりながら愛し合うというからみなのだが、『慕情』『地上より永遠に』と並んで、最も美しい海辺のラブシーンだと思う。1954年当時のトーンの重いモノクロ作品でライトを当てるわけでもなく撮影された海辺はやたら真っ暗だったが、過去を秘めたわけありの二人の不安を内包したようで妙にリアリティを感じさせられたものである。

この映画に出会ったのは高校時代。名画座(あるいはテレビだったか)でこの映画を観たときアルヌールの憂いを含んだ強さと弱さがないまぜになった表情は、リスボンという異国情緒あふれる町とあいまって強烈な印象を受けた。
彼女の魅力はハリウッドの女優にはないフランス風な知的な官能というか、ときに退廃的かと思うと子供のように天真爛漫でコケティッシュな立ち振る舞いを見せたりするアンバランスさ。身長160cmという小柄で華奢な体型だがくびれるところはくびれ出るところは出ているスタイルのよさもあり、今で言うところのエロカワイイという表現がぴったりの女性なのである。
『過去を持つ愛情』で、椅子に座って素足を組むシーンがあるがドキッとするほどきれいな足で実にセクシーだった。歩き方もモデル歩きのようで颯爽としていて本当にうっとりするほど格好いい。

ジャン・ギャバンと共演しアルヌールを世界的女優へと押し上げた『フレンチ・カンカン』(1954)『ヘッドライト』(1955)をはじめ、ロジェ・ヴァディムと組んだ『大運河』(1957)、実在した女性レジスタンスの愛と死を描いた『女猫』(1958)とそれ以来彼女の出演作品を追っかけ続けているのだが、これらの作品以外ではDVD化されている作品が少なく、しかもかつてビデオ化されたものでも廃盤になってしまったものも多く蒐集になかなか苦労している。ハリウッドの大作に比べて現代では特にヌーベルバーグ以前のフランス映画などという需要は少ないのかもしれない。

しかしながら50年代末期から60年代にかけて青春期を過ごした日本の映画青年にとって実はアルヌールは熱烈な支持がある。21世紀を迎えるにあたって『キネマ旬報』で実施された映画人74人によるアンケートによれば“20世紀の映画スター”女優編で並みいるハリウッド女優と肩を並べ7位にランキングされたほどである。また当時の映画ファンでもあった漫画家の石ノ森章太郎氏が『サイボーグ009』の紅一点003の本名にフランソワーズ・アルヌールと命名したことも決して偶然ではないはずだ。
2000年に出版された『フランソワーズ・アルヌール自伝~映画が神話だった時代』(カタログハウス刊)の帯の推薦文で、故久世光彦氏がこんな賛辞を送っている
“あの頃 十七歳のぼくにとって、フランス人の名前と言えば、二つしかなかった。男は『肉体の悪魔』の<フランソワ>、女は『ヘッドライト』の<フランソワーズ> この二人がいてくれて、ぼくたちの青春は光と影の中で、ときめくことができた”
これこそまさに氏から20年遅れの私の心情でもある。

『過去を持つ愛情』のロケから半世紀たったナザレの海岸は、モノクロームのイメージとはかけ離れた紺碧の海とどこまでも続く白い砂浜がまばゆい明るい陽光のなかにあった。おそらくはこの辺だろうと思ったラブシーンの波打ち際にたたずむと、急に風が強く吹きつけ波が大きく砕け私の足元の砂をさらって行った。かたわらには裸足の彼女の息吹を確かに感じた、そんなような気がした。



フランソワーズ・アルヌール
1931年6月3日、フランス領アルジェリアのコンスタンティーヌ生まれ。父親は軍人、母親は舞台女優。高校卒業後演劇研究所で学び、1949年ウィリー・ロジェ監督の『LEPAVE』で映画デビュー。名喜劇役者フェルナンデルと共演した『禁断の木の実』(1952)で一躍人気女優へ。ジャン・ルノワール監督『フレンチ・カンカン』(1954)アンリ・ヴェルヌイユ監督の『ヘッドライト』(1955)の2本でジャン・ギャバンと共演し世界的なヒットとなり国際的な女優へ上り詰める。1961年には来日し“世界中でどこよりカメラで迎えられた”と自伝に記している。プロデューサーのジョルジュ・クラヴァンヌと離婚した後、映画監督のベルナール・ポールと再婚するが死別。70年代以降は日本での公開作品が少なかったが1998年のフランス映画祭でブリジット・ルアン監督『情事の後』が上映され健在ぶりを示した。
主な映画作品
『禁断の木の実』(1952)
『女性の敵』(1953)
『肉体の怒り』(1954)
『過去を持つ愛情』(1954)
『フレンチ・カンカン』(1954)
『ヘッドライト』(1955)
『幸福への招待』(1956)
『大運河』(1957)
『女猫』(1958)
『学生たちの道』(1959)
『パリジェンヌ』(1961)
『フランス式十戒』(1962)
『ダイヤモンドに手を出すな』(1963)
『七人目に賭ける男』(1965)
『夜のアトリエ』(1987)

2008年8月11日月曜日

我らは皆イブの林檎を食べた 麻田奈美


1973年の春だったか、あの日、本屋で発売したばかりの『平凡パンチ』をあんなにもドキドキしながら家へ持ち帰ったことはそれまで経験したことがなかった。早く一人になりたかった。一人になってページを開き思うままに想像の世界に浸りたかった。
なぜならば、その何週間か前の号で初掲載された一人の少女のヌードグラビアが、いきなり大反響を呼んで多くの問い合わせが殺到し、この日発売された号には表紙から巻頭グラビアをその少女の大特集で飾るという触れ込みだったからだ。私も例外なく彼女の裸身に魅了されていた。

少女の名は麻田奈美。17歳。八重歯が光るあどけない童顔に不釣合いな豊満な裸身、それは眩しいまでに健康な輝かしい生命を謳歌しているかのようだった。
撮影は青柳陽一、特に中面に見開きで綴じられた全身正面のピンナップ。立ちポーズで真っ赤な林檎ひとつで局部を隠しもの憂い表情でカメラを見つめるショットには見るものすべてを虜にしてやまないオーラを発していて、性の目覚めを迎えたばかりの少年たちを完全に隷属させてしまった。その神々しい姿はあたかも禁断の林檎を差し出す旧約聖書のイブのような存在に思えたものである。その後、ポスターとして発売され同世代の男の子の部屋には決って貼られていたという時代を象徴するヌードとして語り継がれることになるのであった。

ただ彼女へ思いを募らせる多くの少年たちと違って、私およびわが母校の生徒たちにとってはもっと格別な存在なのである。なんといったってついこの間までわれわれの教室の片隅で、クヌギ林の校庭で、行き帰りの通学路で、あの輝かしい若い性を制服の中に押し込め、確かに彼女はそこに実在したからである。一学年上の彼女は掲載時はすでに卒業を控えた春休みに入っていたので、もうその姿を学校で見ることはかなわなかったのだが、本名であるHR先輩のヌードということでなまじ本人を知っているだけに(といっても一方的だったが)生々しく、妄想を膨らませるのに十分だった。そういう意味では単に“ぼくらのオナペット”などという雑誌のコピーは空々しく感じるほど現実的なことであったのだ。

私らは早速バスケット部のN先輩(彼女も所属していた)になんとか紹介してくれとわたりをつけてもらうべく頼み込んだが、シャイだったNさんは“クラスも違うし、大体そんなに親しくなかったしそんなこと言えねえよ”と言うものの、彼のマジソンのバッグに『平凡パンチ』が巻かれて差し込まれていたのを見逃しはしなかった。1級下のわれわれでもこんなに胸ときめくのに、ましてや同じ学年や同じクラスの男の子にとって見れば、想いはいかばかりであったろうか。実は誰々と付き合っていた、実はオレとなどという風評も絶えなかったが定かではない。

彼女はその後、裸の女神として多くの雑誌のグラビアを飾り、その掲載号は100万部を売り切るものも多かった。多くの同世代のアダムたちが彼女の禁断の林檎を口にしたのである。一躍アイドルと成りCMに出たりレコードも吹き込んだり(「おそい夏」日本コロムビア)していたが、彼女も少女期を脱し大人になるにつれ一段と豊満さを増したことを理由に突然表舞台から消えていった。

そしてあの衝撃的だった春から長い歳月が流れた。最近団塊世代の企画が多く出るようになり、彼女の名が時代を代表する思い出のアイドルとして再び見かけるようになった。青柳陽一のヌード写真集も何度か復活出版されたりしているが、あのときのままのあどけない笑顔と瑞々しいボディは不滅の光を放っている。
最近、マスコミで働く高校のOB会の仕事を手伝うようになったが、一級上の先輩S氏が当時彼女と同級生だったことが判明し、当時の思い出話を聞いたりしていたが、最近クラス会で初めて彼女が出席したそうである。
“で、どんな風になっていましたか?”
と、思わず尋ねたが、
“うん、まあね。幸せそうだったけどね…”
という先輩の口に物が挟まったような答えに、ちょっと質問したことを後悔した。

フィルムに焼き付けられた1973年の春のあの輝かしい青春は、記憶の中で色褪せるなんてことはないからだ。それだけでいいのだ。

麻田奈美
1954年東京都江戸川区出身。都立武蔵丘高校卒業時に、母親が娘の若く美しい姿を記録として残したいということで写真家の青柳陽一に撮影を依頼。これが雑誌のグラビアデビューのきっかけとなり『平凡パンチ』(平凡出版 現マガジンハウス)に掲載されるや一躍評判となり、以下『平凡パンチ』、『GORO』(小学館)等でグラビアアイドルとして一世を風靡する。活動5年で引退。
主な出版物
『麻田奈美・青春の記録』(青柳陽一 1977年平凡出版)
『APPLE 1972-1977 麻田奈美写真集』(青柳陽一 2000年アスペクト)
『APPLE2 麻田奈美写真集』(青柳陽一 2001年アスペクト)
『林檎 ANOTHR APPLE 麻田奈美写真集』(青柳陽一 2004年講談社)
主なCM 
本田技研工業
ヤシカ

*写真はCD「dankaiパンチ~東京に吹く風 昭和40年代フォーク」(VICL-62653)

2008年8月1日金曜日

初恋のワコちゃんのままで 酒井和歌子 


風邪薬はなんといっても昔からタケダのベンザに決まっている。
それは少年の頃のある時期、いやっと言うほどCMを観て洗脳されてしまったからである。
“風邪、イヤね”
あの可愛らしいワコちゃんに笑顔で言われたら、風邪引いてなくたって薬飲みたくなる。
確か『若大将シリーズ』の2代目ヒロインで人気が出てきた60年代後半の頃だった。ワコちゃんの“風邪、
イヤね”を追っかけてタケダの提供番組は必ずチャンネルを合わせていた覚えがある。私のベンザ好きはその頃以来のトラウマなのである。

最初にワコちゃんに出会ったのは64年の映画『今日もわれ大空にあり』での東宝デビューの時のことである。雑誌『ボーイズライフ』のグラビアでジュースをストローで飲みながら上目遣いに微笑んでいる少女のどアップの写真を見て、一目で恋に落ちてしまった。今は無き少年誌『ボーイズライフ』(小学館)は当時、少し大人の世界を覗かせてくれるお洒落な雑誌で、マセガキどもの愛読書だった。さっそく親にねだって映画館へ直行した。映画は航空自衛隊全面協力で最新鋭機F104Jのパイロットたちを題材に撮った航空映画だったが、三橋達也演じる隊長の娘役で、若手隊員にほのかな憧れを抱く純粋無垢な少女を好演していて。こちらの恋心もヒートアップした。親は私が子供らしく飛行機が見たくて選んだ映画だと思っていたことだろうが、異性に恋してそれを目的に映画にいったのはこれが初めてのことだった。

後で知ったのだが彼女は劇団若草の子役ですでにキャリアを積んでいて石原裕次郎の日活映画『あいつと私』で芦川いづみの妹役で吉永小百合とともに出演している。存在感があるのも当然だった。その後テレビの青春ドラマ『青春とはなんだ』の13話「危険な年輪」で貧しさゆえに飲み屋の女給に売られてしまいそうになる薄幸の少女役には衝撃を受けたのを今でもよく覚えている。
『伊豆の踊り子』(67年)や『これが青春だ』(66年)に代表される学園物映画の出演で、いつの間にか東宝のアイドル女優として内藤洋子と人気を二分するようになり、学校でも内藤洋子ファンの友人とどちらが可愛いか論争したものだが、それ以降、恩地日出男監督『めぐりあい』(68年)、小林正樹監督『日本の青春』(1968年)森谷司郎監督『兄貴の恋人』(1968年)と大物監督にも起用され東宝の看板女優へなっていった。

『若大将』シリーズの“節ちゃん”役をさかいに日本映画自体が衰退期に入り、ワコちゃんも『飛び出せ青春』『気まぐれ天使』と言ったようにテレビに活躍の場を変えていったが、その間、出目昌伸監督『誰のために愛するか』(71年)、市川崑/豊田四郎監督『妻と女の間』(76年)で“大人の女”を開眼し、その後の2時間ドラマでの貞淑な妻役や悪女役などマルチに演じていく転換期となったのだろう。この間、私自身も大人へと成長していくにつれ、興味は東映やくざ映画や日活の芦川いづみものに変わってしまい、いつしかワコちゃんへの熱も冷めてしまった。ところが近年、もうワコちゃんなんてイメージは消えすっかり熟女となった酒井和歌子さんをテレビで観るようになって、子供の頃の恋心が再燃するようになってきた。同窓会で昔大好きだったガールフレンドに再会したような感覚とでもいうべきか。そして年月を経て新たな恋の予感を感じてしまうというか。
私生活では加山雄三や田村正和と噂になったりしたこともあったようだが、いまだに結婚することも無く50歳半ばを過ぎて独身のままである。ステージママだった母上の存在が邪魔したなどという説も聞いたことがあったがタモリの『今夜は最高』にゲスト出演したときは、よくお酒を飲み、よく笑う大人の魅力を持った素顔が垣間見えて、つけ入る隙のないとり澄ましたイメージはどこにもなかった。
ご本人には失礼かつ余計なお世話なことかも知れないが、かつてワコちゃんファンであった立場からすればずっといつまでもそのままでいて欲しい。
“風邪、イヤね”と微笑んでくれたあの時の少女が、私の初恋の女性が誰か他の男性に独占されてしまうなんてどうしたって考えたくないからである。

酒井和歌子
1949年4月15日東京都出身。目白学園女子短大国文科中退。劇団若草の子役となり日活映画『あいつと私』(61年)などに出演する傍ら、雑誌『女学生の友』のモデルなどで活躍。15歳で東宝に入社『今日も我大空にあり』(64年)でデビュー。青春映画等への立て続けの出演で67年製作者協会新人女優賞を受賞。以後東宝の看板女優として映画、テレビ、舞台で活躍。76年からフリー。
主な出演映画
『今日もわれ大空にあり』(64年)
『落語野郎』シリーズ(66年~67年)
『社長繁盛記』(68年)
『めぐりあい』(68年)
『河内フーテン族』(68年)
『日本の青春』(68年)
『兄貴の恋人』(68年)
『フレッシュマン若大将』(69年)
『二人の恋人』(69年)
『ニュージーランドの若大将』(69年)
『大日本スリ集団』(69年)
『俺の空だぜ!若大将』(70年)
『誰のために愛するか』(71年)
『激動の昭和史・沖縄決戦』(71年)
『いのちぼうにふろう』(71年)
『戦争を知らない子供たち』(73年)
『華麗なる一族』(74年)
『妻と女の間』(76年)
『刑事物語2りんごの詩』(83年)
『県庁の星』(06年)