2008年12月9日火曜日

水瓶座の星を生きて 高橋惠子


1970年4月、赤軍派のよど号ハイジャック事件で騒然とした世情の中、高校に入学した。
安保闘争に揺れる政治的なムーブメントは、私が通う高校でも無縁ではなかった。
紛争の結果、制服は撤廃され都立高校の“自由”を前に、つい何ヶ月前まで子供だった自分が、すべての局面で急激に大人になったような気がした。
新宿の喫茶店にたまり、煙草を吸い、判りもしない実存主義の本をかじった。

安保闘争が終わりけだるい虚脱感とともに迎えたその年の夏、新宿の映画館でやっていた『高校生ブルース』という映画で一人の女優と出合った。
関根恵子。ちょっと鼻にかかった低い声は、何かとても真面目で知的な印象を受けるのだが、その“真面目な”ごく普通の女子高校生が妊娠するというシチュエーション、セーラー服の下には若々しい肉体が息づくという意外性あふれるセクシャリズムに鮮烈な印象を与えられたのを覚えている。

驚いたのは、パンチやプレイボーイといった雑誌でグラビアを飾っていた彼女のプロフィールを読んだときのこと。同年輩であることは知っていたがなんと誕生日に至るまでまったく同じなのだ。同じ星回りを持って生を受けた偶然。それを知った後はなんだかすごく近しい感じがしたし彼女が演じる思春期の揺れる心象は同じ歳の人間として共感できるものだった。衝撃のデビュー作に続いてその年公開された第2弾目は富島健夫のジュニア小説を映画化した『おさな妻』。そう、オレたちはすでに子供だって産めるし産ますこともできる、法的には制限されるが所帯を持つ事だって可能なのだ(テレビ版の『おさな妻』の麻田ルミも同じ歳だ)。
『高校生心中 純愛』、『遊び』、『成熟』…。その後も大映の人気路線となったレモンセックスシリーズで彼女は次々と、同じ世代の性と愛を演じ続けた。当時の彼女が何を考えていたのかはもちろんわかりようもないが、同じ星に生きるものとしてきっと同じように大人としての現在を生きているはずだ、それはまるで双生児のように繋がっているのだと一方的に思い込んでいたのである。

大映倒産後、東宝に移籍し熊井啓監督の『朝やけの詩』で一躍脚光を浴びる。それは単なる若い肉体だけのアイドル路線を脱却した本格的な女優への第一歩だったし、テレビドラマの『太陽にほえろ!』の新子役での起用は役柄をぐっと広げることとなった。
20歳を迎えたある日、大学の授業をサボって渋谷で浦山桐郎の『青春の門』を観た時、梓旗江役の関根恵子に久々に再会した。しばらく会わなかったが“いい女”になっていた。女教師の梓旗江が外国人の恋人と交わすセックスシーンは生々しかった。それを偶然見てしまう主人公の田中健の心情が痛いほど胸に迫った。いつの間にかずっと彼女の方が大人になってしまっていた。正直性的興奮も憶えたが、それと同時に一抹の淋しさも感じていた。もはや彼女は本当の女優へと成長し、手の届かない存在へと昇華したのだ。
しかしその後、彼女は実生活でも、梓旗江のように愛に傷つき、自殺未遂や失踪事件を起こすなどスキャンダルに見舞われ芸能界から消えてしまうのである。

双生児たる自分もその頃やはり恋もしたし苦い別れも経験した。同じ星を生きる者としては同時に自分のバイオリズムも落ちてしまっているように思っていたが、1981年、彼女は日活ロマンポルノ『ラブレター』で復帰、続く翌年、ピンク映画出身の高橋伴明監督によるATG作品『TATOO<刺青>あり』ではやくざの情婦に堕ちてしまったホステス・三千代役で女の生き様を鬼気迫る演技で表現した。
何があったかは問うまい、色々な体験を経て彼女は自分の道を再び歩みだしたのだろう。
そして彼女は女優としての生きる道を指し示した高橋伴明と結婚することになる。

数年後、テレビに映画に活躍する彼女に本当に会うことになった。当時携わっていた雑誌の仕事でインタビューする機会があったのだ。番組宣伝用のインタビューだったのと、取材時間も限られていたのであまり深いことは聴けなかったが、水瓶座の同じ星を生きるヴァーチャルな存在だった相手とやっと会えたことに感激していた。思った以上に美しい人だった。そしてインタビューの終わりに思い切って「実は僕は高橋さんと同じ日に生まれたんです」とドキドキしながら打ち明けた。
「あ、そうなんですか」
帰ってきたのは…。それだけだった。
そっけない反応に少しがっかりしたが、考えてみればあたりまえのことだ。なんて言ったって相手は私のことなんてぜんぜん知らないのだ。すぐに気を取り直し取材の礼を言った後「頑張ってください。応援しています」。
心の底からそう思っていた。
彼女がどうであれ、彼女の幸福こそ同じ星に生きる自分自身の喜びでもあるからだ。

高橋惠子
1955年1月22日生まれ、北海道出身。中学生のときスカウトされ高校1年で大映映画『高校生ブルース』でデビュー。更に同年の『おさな妻』でゴールデンアロー賞新人賞受賞。日本テレビ『太陽にほえろ!』で一躍人気女優となる。1977年睡眠薬自殺未遂、79年作家・河村季里と海外逃避行するなど相次いでスキャンダルに見舞われ引退を決意。1980年に芸能界に復帰した後、82年に出演した映画『TATOO<刺青>あり』の監督・高橋伴明と結婚、芸名も現姓に改名する。その後多くのテレビドラマ、舞台で活躍中。一男一女の母。
主な映画作品
『高校生ブルース』(1970)
『おさな妻』(1970)
『可愛い悪魔 いいものあげる』(1970)
『新・高校生ブルース』(1970)
『高校生心中 純愛』(1971)
『樹氷悲歌』(1971)
『遊び』(1971)
『成熟』(1971)
『朝やけの詩』(1973)
『神田川』(1974)
『動脈列島』(1975)
『青春の門』(1975)
『ラブレター』(1981)
『幻の湖』(1982)
『TATOO<刺青>あり』(1982)
『恋文』(1985)
『次郎物語』(1987)
『ふみ子の海』(2007)

2008年10月2日木曜日

わが妖しきゼフィルス エルザ


それはわずか2,3分の刹那の衝撃だった。
1975年のある日の午後、私はいつものように大学の授業をサボってクラスメイトの樋本君を誘い、いきつけの喫茶店『ドルフィン』でだらだらと時間を潰していた。
『ドルフィン』は現在は既に無いが、当時北青山の旧紀ノ国屋の角を曲がった先にあったこじんまりしたしゃれた喫茶店だった。地下が音楽スタジオになっていてそこが経営していたと思う。
くだらないおしゃべりをしていた我々だったが、ふと喋っていた樋本が口をあけたまま会話をやめた。彼の視線を追って振り返ると背にしていた店の入り口から、ひとりの女性が入ってきたのが見えた。
気が付けば店中の時間が止まっていた。
誰一人動くことの無い空間を、彼女は静かに入ってきて店の従業員に地下のスタジオへ珈琲の出前をオーダーすると踵を返し凍りついて身動き一つ出来ない我々の前を通って、えもいえぬいい匂いの移り香を残し再び扉を開けて外へ出て行った。
そのとたん、縛りが解けてため息とともに時間が再び動き出したように感じた。
「エルザだったね」樋本がぽつりと言ったが、
「うん、スゲーな」と陳腐な答えしか出てこなかった。

この世のものとは思えない美しさとはこのときの彼女のことを指すのだとあの瞬間から30年以上たった今でも思っている。グレーの身体にフィットしたバルキーセーターにジーンズというラフなファッションだったが、それがとってもセミワイルドな雰囲気をかもし出し、小柄だが均整の取れた立ち姿に、栗色のふんわりした髪、猫のような不思議な光を放つ瞳、いまでもあの光景は脳裏から離れない。

このエルザと呼ばれる女性は、当時売れっ子のモデルでCMや男性誌のグラビアを飾っていた。
本名はエリザベス・ゲドリック。ポーランド系アメリカ人を父に持ついわゆるハーフタレントである。
もともとスラブ系のポーランドの血をひいていることもあって、ヤンキー的な明るさとは対極のちょっとエキゾチックな物静かなイメージがあったのだが、その反面単なるモデルに飽き足らず、歌手としても活動しており、あの日もレコーディングの最中だったのだろうか地下のスタジオを利用している合間だったのかもしれない。

最近になって彼女がレコーディングしたアルバム『Half&Half』『ポップコーンと魔法使い』が復刻プレスされ、初期のシングル曲「山猫の唄」「エルザのテーマ」も昭和POPSのコンピレーション盤の『歌謡曲番外地 悪なあなた』のなかに収録されており早速手に入れたのである。
いまあらためて聞くと、決してお世辞にも上手いとはいえないヴォーカルだが、ちょっと沈んだトーンの声質はなんだかとても耳障りがよく、あの頃の美しい姿と重ね合わせて想像すると不思議な魅力がある。
当時は知らなかったが、デビュー曲の「山猫の唄」は今をときめくCharがバックバンドのギタリストとして参加していて、スタジオミュージシャンとしての初めてのレコード収録でもあった。Charは当時からやはり図抜けた技量を発揮していて曲間にはクラプトン張りのソロパーツもあリ、こちらの方でも日本のロック史的に価値ある作品といえるのではないだろうか。『ポップコーンと魔法使い』の方でも、四人囃子の茂木由多加、佐久間正英が参加しており、単なるアイドルPOPSとは一線を画した当時としては玄人っぽいスタイルを貫いている。
しかしながら、彼女の活躍していた時期はそう長いことではなく、80年代に入ってしばらくたつといつのまにか忽然とメディアから姿を消してしまった。

手塚治虫の漫画で『地球を呑む』という作品がある。南洋の密林の中の宮殿に人知れず暮らし、その姿を見た男性は(たとえ写真であっても)すべて虜にしてしまうという美貌を持つゼフィルスという女性を描いたものだが、戦争中狂死した捕虜からその写真を見せられたがゆえに戦後何年たっても彼女を思い続けてきた中年の親父たちが登場するエピソードがあり、まるで80年代に姿を消した後もそのとき同席していた樋本と会うたびにどちらからともなくエルザの話を切り出さざるを得ないわれわれの姿そのものである。
一瞬見てしまっただけで30年以上も心を捕らえ続けているエルザこそは確かに私にとってのゼフィルスに違いない。

その後のエルザの消息は遥として分からない。年齢的には既に50を超えている計算だが、おそらくは結婚もし子供も既に成人しているかもしれないのだが、どう考えてみてもそういう幸せな家庭を築いているといった小市民的なイメージが浮かんでこないのだ。
「山猫の唄」の歌詞に“私が歩けばジャングル中は あっちもこっちもため息ばかり そうよそうなの 私は毎年続けてミス・アマゾン”というフレーズがある。
これを聴いているとなんだか本当に南洋の密林の中に、いまもあのとき見た美しい姿のままで妖しい魅力を放っているかもしれない気になってくる。

そう、まるでゼフィルスのように、である。

エルザ
1957年6月25日生まれ。福岡県出身。本名エリザベス・ゲドリック。ポーランド系アメリカ人の父親と日本人の母親とのハーフ。
70年代はじめからモデルとして多くのCMに出演し男性誌のグラビアを飾る。
73年エレックレコード傘下の愛レーベルから「山猫の唄」で歌手デビュー。その後トリオレコードに移籍し「父よ」を発表。アルバムは『Half&Half』(TOYBOX),『ポップコーンと魔法使い』(ビクターエンタテインメント)
主なCM
トヨタ自動車、資生堂など。
主な出演作
81年花王名人劇場『裸の大将放浪記第7話』(関西テレビ)

2008年8月31日日曜日

50年前の足跡を追って フランソワーズ・アルヌール


2004年7月3日。私はポルトガルのリスボンから乗ったバスに揺られていた。高速道路を北上し田舎道に入って約2時間ほど走ると、大西洋の碧い海岸線が急に開けて目的の町ナザレに到着した。サッカー観戦ツアーの合間に出来たフリーの日、私は一人でどうしてもこの地を訪れたかった。それは昔観た映画の舞台となった地であり、銀幕で恋焦がれたあるフランス人女優の足跡をたどりたかったからである。言わば韓流ドラマ「冬のソナタ」でヨン様とジウ姫の名シーンのロケ地に押しかけるおば様たちと同様の衝動に突き動かされてのことだった。

私の“冬ソナ”は『過去を持つ愛情』と言う1954年製作の古いモノクロの作品である。ポルトガルを舞台にしたアンリ・ヴェルヌイユ監督のラブサスペンスで、映画史的にさほど評価の対象になるような映画ではないが、ファドの天才歌手アマリア・ロドリゲスを世界に紹介した映画として知られている。この映画の主演女優がフランソワーズ・アルヌールである。
共演はダニエル・ジェラン。パリ解放の日、戦地から凱旋したジェランは妻の浮気現場にでくわし衝動的に射殺してしまう。情状酌量を汲まれ釈放されたが流れ流れてリスボンでタクシーの運転手をしている。ある日貴族の未亡人アルヌールを乗せひょんなことから恋に落ちる。しかしアルヌールにも秘密の過去があったというストーリー。
私が出向いたナザレのシーンは、ジェランが休日に風光明媚なこの地へアルヌールを案内したことから二人の恋が燃え上がり、夜の海岸の波打ち際でずぶ濡れになりながら愛し合うというからみなのだが、『慕情』『地上より永遠に』と並んで、最も美しい海辺のラブシーンだと思う。1954年当時のトーンの重いモノクロ作品でライトを当てるわけでもなく撮影された海辺はやたら真っ暗だったが、過去を秘めたわけありの二人の不安を内包したようで妙にリアリティを感じさせられたものである。

この映画に出会ったのは高校時代。名画座(あるいはテレビだったか)でこの映画を観たときアルヌールの憂いを含んだ強さと弱さがないまぜになった表情は、リスボンという異国情緒あふれる町とあいまって強烈な印象を受けた。
彼女の魅力はハリウッドの女優にはないフランス風な知的な官能というか、ときに退廃的かと思うと子供のように天真爛漫でコケティッシュな立ち振る舞いを見せたりするアンバランスさ。身長160cmという小柄で華奢な体型だがくびれるところはくびれ出るところは出ているスタイルのよさもあり、今で言うところのエロカワイイという表現がぴったりの女性なのである。
『過去を持つ愛情』で、椅子に座って素足を組むシーンがあるがドキッとするほどきれいな足で実にセクシーだった。歩き方もモデル歩きのようで颯爽としていて本当にうっとりするほど格好いい。

ジャン・ギャバンと共演しアルヌールを世界的女優へと押し上げた『フレンチ・カンカン』(1954)『ヘッドライト』(1955)をはじめ、ロジェ・ヴァディムと組んだ『大運河』(1957)、実在した女性レジスタンスの愛と死を描いた『女猫』(1958)とそれ以来彼女の出演作品を追っかけ続けているのだが、これらの作品以外ではDVD化されている作品が少なく、しかもかつてビデオ化されたものでも廃盤になってしまったものも多く蒐集になかなか苦労している。ハリウッドの大作に比べて現代では特にヌーベルバーグ以前のフランス映画などという需要は少ないのかもしれない。

しかしながら50年代末期から60年代にかけて青春期を過ごした日本の映画青年にとって実はアルヌールは熱烈な支持がある。21世紀を迎えるにあたって『キネマ旬報』で実施された映画人74人によるアンケートによれば“20世紀の映画スター”女優編で並みいるハリウッド女優と肩を並べ7位にランキングされたほどである。また当時の映画ファンでもあった漫画家の石ノ森章太郎氏が『サイボーグ009』の紅一点003の本名にフランソワーズ・アルヌールと命名したことも決して偶然ではないはずだ。
2000年に出版された『フランソワーズ・アルヌール自伝~映画が神話だった時代』(カタログハウス刊)の帯の推薦文で、故久世光彦氏がこんな賛辞を送っている
“あの頃 十七歳のぼくにとって、フランス人の名前と言えば、二つしかなかった。男は『肉体の悪魔』の<フランソワ>、女は『ヘッドライト』の<フランソワーズ> この二人がいてくれて、ぼくたちの青春は光と影の中で、ときめくことができた”
これこそまさに氏から20年遅れの私の心情でもある。

『過去を持つ愛情』のロケから半世紀たったナザレの海岸は、モノクロームのイメージとはかけ離れた紺碧の海とどこまでも続く白い砂浜がまばゆい明るい陽光のなかにあった。おそらくはこの辺だろうと思ったラブシーンの波打ち際にたたずむと、急に風が強く吹きつけ波が大きく砕け私の足元の砂をさらって行った。かたわらには裸足の彼女の息吹を確かに感じた、そんなような気がした。



フランソワーズ・アルヌール
1931年6月3日、フランス領アルジェリアのコンスタンティーヌ生まれ。父親は軍人、母親は舞台女優。高校卒業後演劇研究所で学び、1949年ウィリー・ロジェ監督の『LEPAVE』で映画デビュー。名喜劇役者フェルナンデルと共演した『禁断の木の実』(1952)で一躍人気女優へ。ジャン・ルノワール監督『フレンチ・カンカン』(1954)アンリ・ヴェルヌイユ監督の『ヘッドライト』(1955)の2本でジャン・ギャバンと共演し世界的なヒットとなり国際的な女優へ上り詰める。1961年には来日し“世界中でどこよりカメラで迎えられた”と自伝に記している。プロデューサーのジョルジュ・クラヴァンヌと離婚した後、映画監督のベルナール・ポールと再婚するが死別。70年代以降は日本での公開作品が少なかったが1998年のフランス映画祭でブリジット・ルアン監督『情事の後』が上映され健在ぶりを示した。
主な映画作品
『禁断の木の実』(1952)
『女性の敵』(1953)
『肉体の怒り』(1954)
『過去を持つ愛情』(1954)
『フレンチ・カンカン』(1954)
『ヘッドライト』(1955)
『幸福への招待』(1956)
『大運河』(1957)
『女猫』(1958)
『学生たちの道』(1959)
『パリジェンヌ』(1961)
『フランス式十戒』(1962)
『ダイヤモンドに手を出すな』(1963)
『七人目に賭ける男』(1965)
『夜のアトリエ』(1987)

2008年8月11日月曜日

我らは皆イブの林檎を食べた 麻田奈美


1973年の春だったか、あの日、本屋で発売したばかりの『平凡パンチ』をあんなにもドキドキしながら家へ持ち帰ったことはそれまで経験したことがなかった。早く一人になりたかった。一人になってページを開き思うままに想像の世界に浸りたかった。
なぜならば、その何週間か前の号で初掲載された一人の少女のヌードグラビアが、いきなり大反響を呼んで多くの問い合わせが殺到し、この日発売された号には表紙から巻頭グラビアをその少女の大特集で飾るという触れ込みだったからだ。私も例外なく彼女の裸身に魅了されていた。

少女の名は麻田奈美。17歳。八重歯が光るあどけない童顔に不釣合いな豊満な裸身、それは眩しいまでに健康な輝かしい生命を謳歌しているかのようだった。
撮影は青柳陽一、特に中面に見開きで綴じられた全身正面のピンナップ。立ちポーズで真っ赤な林檎ひとつで局部を隠しもの憂い表情でカメラを見つめるショットには見るものすべてを虜にしてやまないオーラを発していて、性の目覚めを迎えたばかりの少年たちを完全に隷属させてしまった。その神々しい姿はあたかも禁断の林檎を差し出す旧約聖書のイブのような存在に思えたものである。その後、ポスターとして発売され同世代の男の子の部屋には決って貼られていたという時代を象徴するヌードとして語り継がれることになるのであった。

ただ彼女へ思いを募らせる多くの少年たちと違って、私およびわが母校の生徒たちにとってはもっと格別な存在なのである。なんといったってついこの間までわれわれの教室の片隅で、クヌギ林の校庭で、行き帰りの通学路で、あの輝かしい若い性を制服の中に押し込め、確かに彼女はそこに実在したからである。一学年上の彼女は掲載時はすでに卒業を控えた春休みに入っていたので、もうその姿を学校で見ることはかなわなかったのだが、本名であるHR先輩のヌードということでなまじ本人を知っているだけに(といっても一方的だったが)生々しく、妄想を膨らませるのに十分だった。そういう意味では単に“ぼくらのオナペット”などという雑誌のコピーは空々しく感じるほど現実的なことであったのだ。

私らは早速バスケット部のN先輩(彼女も所属していた)になんとか紹介してくれとわたりをつけてもらうべく頼み込んだが、シャイだったNさんは“クラスも違うし、大体そんなに親しくなかったしそんなこと言えねえよ”と言うものの、彼のマジソンのバッグに『平凡パンチ』が巻かれて差し込まれていたのを見逃しはしなかった。1級下のわれわれでもこんなに胸ときめくのに、ましてや同じ学年や同じクラスの男の子にとって見れば、想いはいかばかりであったろうか。実は誰々と付き合っていた、実はオレとなどという風評も絶えなかったが定かではない。

彼女はその後、裸の女神として多くの雑誌のグラビアを飾り、その掲載号は100万部を売り切るものも多かった。多くの同世代のアダムたちが彼女の禁断の林檎を口にしたのである。一躍アイドルと成りCMに出たりレコードも吹き込んだり(「おそい夏」日本コロムビア)していたが、彼女も少女期を脱し大人になるにつれ一段と豊満さを増したことを理由に突然表舞台から消えていった。

そしてあの衝撃的だった春から長い歳月が流れた。最近団塊世代の企画が多く出るようになり、彼女の名が時代を代表する思い出のアイドルとして再び見かけるようになった。青柳陽一のヌード写真集も何度か復活出版されたりしているが、あのときのままのあどけない笑顔と瑞々しいボディは不滅の光を放っている。
最近、マスコミで働く高校のOB会の仕事を手伝うようになったが、一級上の先輩S氏が当時彼女と同級生だったことが判明し、当時の思い出話を聞いたりしていたが、最近クラス会で初めて彼女が出席したそうである。
“で、どんな風になっていましたか?”
と、思わず尋ねたが、
“うん、まあね。幸せそうだったけどね…”
という先輩の口に物が挟まったような答えに、ちょっと質問したことを後悔した。

フィルムに焼き付けられた1973年の春のあの輝かしい青春は、記憶の中で色褪せるなんてことはないからだ。それだけでいいのだ。

麻田奈美
1954年東京都江戸川区出身。都立武蔵丘高校卒業時に、母親が娘の若く美しい姿を記録として残したいということで写真家の青柳陽一に撮影を依頼。これが雑誌のグラビアデビューのきっかけとなり『平凡パンチ』(平凡出版 現マガジンハウス)に掲載されるや一躍評判となり、以下『平凡パンチ』、『GORO』(小学館)等でグラビアアイドルとして一世を風靡する。活動5年で引退。
主な出版物
『麻田奈美・青春の記録』(青柳陽一 1977年平凡出版)
『APPLE 1972-1977 麻田奈美写真集』(青柳陽一 2000年アスペクト)
『APPLE2 麻田奈美写真集』(青柳陽一 2001年アスペクト)
『林檎 ANOTHR APPLE 麻田奈美写真集』(青柳陽一 2004年講談社)
主なCM 
本田技研工業
ヤシカ

*写真はCD「dankaiパンチ~東京に吹く風 昭和40年代フォーク」(VICL-62653)

2008年8月1日金曜日

初恋のワコちゃんのままで 酒井和歌子 


風邪薬はなんといっても昔からタケダのベンザに決まっている。
それは少年の頃のある時期、いやっと言うほどCMを観て洗脳されてしまったからである。
“風邪、イヤね”
あの可愛らしいワコちゃんに笑顔で言われたら、風邪引いてなくたって薬飲みたくなる。
確か『若大将シリーズ』の2代目ヒロインで人気が出てきた60年代後半の頃だった。ワコちゃんの“風邪、
イヤね”を追っかけてタケダの提供番組は必ずチャンネルを合わせていた覚えがある。私のベンザ好きはその頃以来のトラウマなのである。

最初にワコちゃんに出会ったのは64年の映画『今日もわれ大空にあり』での東宝デビューの時のことである。雑誌『ボーイズライフ』のグラビアでジュースをストローで飲みながら上目遣いに微笑んでいる少女のどアップの写真を見て、一目で恋に落ちてしまった。今は無き少年誌『ボーイズライフ』(小学館)は当時、少し大人の世界を覗かせてくれるお洒落な雑誌で、マセガキどもの愛読書だった。さっそく親にねだって映画館へ直行した。映画は航空自衛隊全面協力で最新鋭機F104Jのパイロットたちを題材に撮った航空映画だったが、三橋達也演じる隊長の娘役で、若手隊員にほのかな憧れを抱く純粋無垢な少女を好演していて。こちらの恋心もヒートアップした。親は私が子供らしく飛行機が見たくて選んだ映画だと思っていたことだろうが、異性に恋してそれを目的に映画にいったのはこれが初めてのことだった。

後で知ったのだが彼女は劇団若草の子役ですでにキャリアを積んでいて石原裕次郎の日活映画『あいつと私』で芦川いづみの妹役で吉永小百合とともに出演している。存在感があるのも当然だった。その後テレビの青春ドラマ『青春とはなんだ』の13話「危険な年輪」で貧しさゆえに飲み屋の女給に売られてしまいそうになる薄幸の少女役には衝撃を受けたのを今でもよく覚えている。
『伊豆の踊り子』(67年)や『これが青春だ』(66年)に代表される学園物映画の出演で、いつの間にか東宝のアイドル女優として内藤洋子と人気を二分するようになり、学校でも内藤洋子ファンの友人とどちらが可愛いか論争したものだが、それ以降、恩地日出男監督『めぐりあい』(68年)、小林正樹監督『日本の青春』(1968年)森谷司郎監督『兄貴の恋人』(1968年)と大物監督にも起用され東宝の看板女優へなっていった。

『若大将』シリーズの“節ちゃん”役をさかいに日本映画自体が衰退期に入り、ワコちゃんも『飛び出せ青春』『気まぐれ天使』と言ったようにテレビに活躍の場を変えていったが、その間、出目昌伸監督『誰のために愛するか』(71年)、市川崑/豊田四郎監督『妻と女の間』(76年)で“大人の女”を開眼し、その後の2時間ドラマでの貞淑な妻役や悪女役などマルチに演じていく転換期となったのだろう。この間、私自身も大人へと成長していくにつれ、興味は東映やくざ映画や日活の芦川いづみものに変わってしまい、いつしかワコちゃんへの熱も冷めてしまった。ところが近年、もうワコちゃんなんてイメージは消えすっかり熟女となった酒井和歌子さんをテレビで観るようになって、子供の頃の恋心が再燃するようになってきた。同窓会で昔大好きだったガールフレンドに再会したような感覚とでもいうべきか。そして年月を経て新たな恋の予感を感じてしまうというか。
私生活では加山雄三や田村正和と噂になったりしたこともあったようだが、いまだに結婚することも無く50歳半ばを過ぎて独身のままである。ステージママだった母上の存在が邪魔したなどという説も聞いたことがあったがタモリの『今夜は最高』にゲスト出演したときは、よくお酒を飲み、よく笑う大人の魅力を持った素顔が垣間見えて、つけ入る隙のないとり澄ましたイメージはどこにもなかった。
ご本人には失礼かつ余計なお世話なことかも知れないが、かつてワコちゃんファンであった立場からすればずっといつまでもそのままでいて欲しい。
“風邪、イヤね”と微笑んでくれたあの時の少女が、私の初恋の女性が誰か他の男性に独占されてしまうなんてどうしたって考えたくないからである。

酒井和歌子
1949年4月15日東京都出身。目白学園女子短大国文科中退。劇団若草の子役となり日活映画『あいつと私』(61年)などに出演する傍ら、雑誌『女学生の友』のモデルなどで活躍。15歳で東宝に入社『今日も我大空にあり』(64年)でデビュー。青春映画等への立て続けの出演で67年製作者協会新人女優賞を受賞。以後東宝の看板女優として映画、テレビ、舞台で活躍。76年からフリー。
主な出演映画
『今日もわれ大空にあり』(64年)
『落語野郎』シリーズ(66年~67年)
『社長繁盛記』(68年)
『めぐりあい』(68年)
『河内フーテン族』(68年)
『日本の青春』(68年)
『兄貴の恋人』(68年)
『フレッシュマン若大将』(69年)
『二人の恋人』(69年)
『ニュージーランドの若大将』(69年)
『大日本スリ集団』(69年)
『俺の空だぜ!若大将』(70年)
『誰のために愛するか』(71年)
『激動の昭和史・沖縄決戦』(71年)
『いのちぼうにふろう』(71年)
『戦争を知らない子供たち』(73年)
『華麗なる一族』(74年)
『妻と女の間』(76年)
『刑事物語2りんごの詩』(83年)
『県庁の星』(06年)

2008年7月25日金曜日

優しい白い花のような  芦川いづみ




私はサユリストならぬイズミストである。
好きな女性のタイプはと聞かれれば、即座に答えるのがこの人の名前だ。
このブログをはじめるにあたって、やはり私が思いを募らせた一番の女性は、なんといっても芦川いづみ様をおいて他にないことを改めて認識したのであった。

見初めたのは中学生の頃にさかのぼる。場末の三番館で赤木圭一郎の『霧笛が俺を呼んでいる』で出会って以来夢中になって、よわい50を超えた今に至るまで、彼女の面影を一途追い続けている。

霧の波止場にマドロスの赤木圭一郎との別れのラストシーン。彼女は憂いを含んだ表情で立っている。
杉(赤木)  「めまぐるしい数日で悲しいことも多かったけれど、あなたと一緒で楽しいこともありまし
        た。最初の霧の晩、ホテルの窓辺で初めてあなたとお会いしたときの霧笛が、今でも耳に
        残ってます」
美也子(いづみ)「さようなら」
杉(赤木)  「ごきげんよう」

既にすっかり諳んじてしまった台詞だが、いまだにそのシーンが見たくて2ヶ月に一度はDVD(最初は録画したVTR、その後はセルで買ったVHSだった)を飽かずに観てしまうのである。ブルーの縦じまのワンピースがまた本当に可憐で清楚な彼女を際立たせているんだなあ、これが。
唇の端が上に向いたキュートな表情、清楚だけどしっかりとした芯を感じさせる立ち振る舞い、可愛らしくもあるがその奥に光る知性。スクリーンでテレビで観る度に甘酸っぱい気分に立ち返らせてくれる人なのである。




当時の愛称は“お麦”。有馬稲子に似ているけど、稲より細いからということらしい。また石原裕次郎は別に“ねずみ”と命名した。しかし有馬稲子より断然知的に見えるし、ビーバーみたいな裕次郎に言われる筋合いはない。ただそう言われれば裕次郎と海外ロケを敢行した『アラブの嵐』(61年)での白いドレス姿は、チャーミングなハツカネズミといった感も確かにある。
イラストレーターの開祖・中原淳一は“芦川さんは優しい白い花のような印象の人だ”と「じゅにあそれいゆ」に記したそうだ(ファンサイトより)。
中原の描く少女の世界観は、まさに彼女のイメージを髣髴させる。

私が雑誌の仕事をするようになったとき、彼女はとうに芸能界を引退しており実際にお会いできるすべはなかった。同時期の日活の大女優だった浅丘ルリ子にインタビューしたときでさえ、彼女ではないことをうらみながら当時の話を聞いたものだ。
引退後既に40年を超えてしまい、その間もメディアの前に姿を現すことはなかった。が、最近、宍戸錠をはじめかつての日活の俳優たちの同窓会が開催され、久々に彼女の姿があったと報じられた。伝えられるところによると、年月は経ていても“優しい白い花のような人”という印象そのものだったという。

芦川いづみ
1935年10月6日、東京都出身。
法政大学潤光女子高(現法政大学女子高)を中退し松竹歌劇団舞踊学校に入学。1953年にファッションショーに借り出された際、川島雄三監督に見出され『東京マダムと大阪夫人』に起用され女優デビュー。その後川島監督とともに日活に移籍。『洲崎パラダイス赤信号』(56年)、『幕末太陽伝』(57年)と立て続けに川島作品で脚光を浴びる。以後、石原裕次郎、赤木圭一郎、二谷英明といったスターたちと共演し日活黄金時代を支え続けた。葉山良二とのロマンスがささやかれたが68年に藤竜也と結婚し、惜しまれつつ引退。
主な作品
『洲崎パラダイス赤信号』(56年)
『乳母車』(56年)
『幕末太陽伝』(57年)
『嵐を呼ぶ男』(57年)
『陽のあたる坂道』(58年)
『霧笛が俺を呼んでいる』(60年)
『あした晴れるか』(60年)
『あいつと私』(61年)
『アラブの嵐』(61年)
『憎いあンちくしょう』(62年)
『青春を返せ』(63年)
『若草物語』(64年)
『日本列島』(65年)
『四つの恋の物語』(65年)
『源氏物語』(66年)

私設ファンサイト
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