2009年2月2日月曜日

赤い靴はもう脱いだのか ロザンナ・アークエット


マドンナが爆発的な人気で世界のミュージックシーンを席巻し始めていた1985年、彼女の初の本格的映画出演となった『マドンナのスーザンを探して』(原題『Desperately Seeking SUZAN』)は、彼女のファンに向けた、奔放でセクシーな魅力をたっぷり織り込んだ作品でヒット曲の“Into The Groove”が使われたこともありそこそこのヒット作となった。
ただし日本では宣伝上タイトルの頭に“マドンナの”とつけられていたが、主演を張っていたのは決してマドンナではなく当時新進の女優ロザンナ・アークエットその人だった(その年のゴールデングローブ賞の主演女優にノミネートされている)。

平凡な日常に満たされないものを感じていた主婦が、新聞の求人広告に掲載された“必死でスーザンを求む”という秘密めいた言葉にひきつけられ、そのスーザンなる女性の行方をたどり始めることからとんでもない事件に巻き込まれてしまうという、サスペンスタッチのライトコメディだったが日本では“主演”となってしまったマドンナはともかく、本来主演のロザンナのコケティッシュな魅力には凄いインパクトを受けたものである。

ロザンナ・アークエットは79年の『アメリカングラフィティ2』を皮切りに、83年の『ベイビー・イッツ・ユー』など青春もので頭角を現していたのだが、この『スーザンを探して』と前後してマーティン・スコセッシの『アフター・アワーズ』、ローレンス・カスダンの『シルバラード』という大物監督の作品に立て続けに起用されており、85年という年は女優としての彼女のキャリアがブレイクした年でもあった。
フランス人を思わせる名前だが、ニューヨーク出身のユダヤ系アメリカ人で、小鹿のようなというか子犬のようなというか実にファニーな顔立ちが愛くるしく、聞けば82年のグラミー賞に輝いたTOTOの大ヒット曲『ロザーナ』はメンバーのジェフ・ポーカロが、一時同棲していた彼女に捧げられたものというのにも驚かされた。

そのロザンナがなんといっても世界に知れ渡ったのはリュック・ベッソンの『グランブルー』(1988)である。世界的な大ヒット作品となったこの映画で、主人公のイルカと交感できる男ジャック・マイヨールと恋に落ちるアメリカのキャリア・ウーマンの役でロザンナは一躍世界の恋人となった。私の周辺にもロザンナのファンは増え始め、いまでも『グランブルー』のときのロザンナの愛らしさを語らせると止まらなくなる友人もいる。
この『グランブルー』の大成功だったが、にもかかわらずその後の作品はあまり恵まれたものとはいえなかった。89年の『ニューヨーク・ストーリー』はスコセッシの演出での出演だったがオムニバス映画のパーツであったし、ジョン・ミリウスの『イントルーダー』では主人公の妻という刺身のつまのような役だった。その他にはオーストラリア映画『ウェンディの見る夢は』というコメディの小品がある程度である。
なぜ、彼女は選りによってこんな作品に出てしまうんだろう。『グランブルー』のジョアンナのイメージがかえって役柄を狭めてしまうんだろうか?彼女の名が出るたびにそんな疑問がわいたし残念な思いをしていた。

1991年、当時映画雑誌の編集長をやっていた際、米仏合作『恋人たちのパリ』の宣伝でロザンナが来日し本人にインタビューが出来るという願っても無いチャンスがあった。心待ちにしていた本人とのご対面だったが残念ながら社の幹部との会議かなんかで断腸の思いで他の編集部員にその機会を譲ってしまったのである。インタビューではくれぐれも編集長が個人的にファンであることと、『グランブルー』以降の作品選択の件を聞いてくれと念を押しておいた。
インタビューから帰ってきた部員が言うには“編集長がファンだといったらすごく嬉しがっていましたよ”と真偽のほどは判らないが冗談交じりに私を悔しがらせる報告があった後、私のもうひとつの疑問に関しては“先ずは俳優としてのレンジは広く持ちたい。非メジャーな小味の作品に思いがある”といった心情を語り、続いて“『スーザン~』『恋人たちのパリ』は女性監督、『ウェンディ~』も女性の脚本ということで女性の才能に重きを置いている”というような答えが返ってきたそうだ。記事の中でも製作プロの設立に言及し、監督業進出?という質問に“先の楽しみね”と含みを持たせていた(日本版プレミア91年7月号)。


俳優としてのレンジに関しては、その後『愛の拘束』(1993)のインモラルな女、タランティーノの『パルプフィクション』(1994)の刺青女、デビッド・クローネンバーグの『クラッシュ』では自動車事故に性的興奮を覚えるボンデージ女など、それまでの愛らしさを根底から覆すとんでもない「異常な個性」を演じ続け、女性の才能、製作者への関心ということについては2002年の『デブラ・ウィンガーを探して』で自らメガホンを取ることで結実することになる。実は彼女のポリシーは彼女なりにまったくぶれることはなかったのかもしれない。

『デブラ・ウィンガーを探して』はロザンナが子供の頃、母親から観せられた1948年の英国映画『赤い靴』で衝撃を受けて以来心に抱いていたトラウマである“個人の生活と自己表現の両立は不可能なのか”という命題を34人のハリウッド女優にインタビューしたドキュメント映画で、40代を超えた女優たちの本音を包み隠さず映し出し評判を呼んだ。映画手法的に見ればハリウッドでは酷評もされたようだが、ロザンナの不安や疑問に大勢のハリウッドの女優たちが共感し出演を快諾したのも、彼女のポリシーゆえなのだろう。
ジェーン・フォンダ、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、シャーロット・ランプリングといった憧れの女優たちに向かい合ったとき、他の同じ境遇の女優たちと当時6歳の子供の話しをして自分の悩みを打ち明けたとき、女優としての絶頂期にありながら引退したデブラ・ウィンガーに『赤い靴』のたとえ話をする時、ロザンナは本当に『スーザンを探して』のときのような冒険心溢れる生き生きした表情を見せてくれ、また『グランブルー』のときのようなチャーミングな笑顔が健在だったことに思いしらされた。

彼女も40代としての女優としての位置関係に悩みつつも製作者としての表現方法にもチャレンジしアクティブに活動し続けている。『赤い靴』を脱いだ感のある彼女の今後の活躍がますます楽しみになってもくる。
今年で50代に突入することになるのだが、最近ではなんとポール・マッカートニーと浮名を流すというゴシップも飛び出した。そういえば私生活ではロックスターを次々と篭絡していたっけ。

恐るべしその色香に脱帽するばかりである。
私もまだまだ彼女の魅力から拘束は解けないままだ。



ロザンナ・アークエット
1959年8月10日、ニューヨーク出身。祖父がコメディアン、父が俳優という芸能一家に生まれ、4人の弟妹たち(パトリシア、リッチモンド、アレクシス、デヴィッド)もすべて俳優になっている。子供の頃から児童劇に出ていたが16歳で西海岸までヒッチハイクで渡り、舞台を中心に経験を積む。TVシリーズ『悪魔の棲む村』の出演で注目され、79年『アメリカングラフィティ2』で映画デビュー。私生活では5度の離婚を経験。前夫は映画音楽のコンポーザーのジェームズ・ニュートン・ハワード。自らロック好きを認じ私生活ではTOTOのジェフ・ポーカロ、ピーター・ガブリエルと同棲していたし、最近ではポール・マッカートニーと熱愛が報じられた。
主な映画作品
『アメリカングラフィティ2』(1979)
『ロングウェイ・ホーム』(1981)
『ベイビー・イッツ・ユー』(1983)
『アフター・アワーズ』(1985)
『シルバラード』(1985)
『マドンナのスーザンを探して』(1985)
『ノーバディーズ・フール』(1986)
『グラン・ブルー』(1988)
『ニューヨーク・ストーリー』(1989)
『ウェンディの見る夢は』(1990)
『恋人たちのパリ』(1990)
『ブラック・レインボウ』(1991)
『イントルーダー/怒りの翼』(1991)
『ニューヨーク恋泥棒』(1992)
『ボディ・ターゲット』(1993)
『愛の拘束』(1993)
『パルプフィクション』(1994)
『クラッシュ』(1996)
『TABOOタブー』(1998)
『ポイズン』(1999)
『隣のヒットマン』(2000)
『デブラ・ウィンガーを探して』(2002)
『グレイズ・アナトミー恋の解剖学』(2006)